人生の処方箋・セラピスト愚禿進の我が計らいにあらず e-mail:gutokushin610@outlook.com

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我が計らいにあらず 59 自然という生き方 15

2017年06月17日 | 人生の処方箋

 もう一度記す。『善人なおもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや」とあるが、善人と悪人を入れ替えて読むのが世間の習わしであろう。
 善人は自分で行った修行によって、善行によって往生しようとする人を指します。自力で何とかしようとしますから、仏の力を借りなくても、他力を頼まなくても何とかしようと思っています。❍❍宗△△派というようなことではなくてここでは自分の善行が人をも救い、自分も往生できると考えてる人たちです。宗教に関係なく言えば、
この善人が圧倒的多数を占めるのが現代社会です。見かけ上はですけど。一方悪人は「煩悩具足のわれら」とか「罪業深重のわが身」みずからをその場におき、どんな修行をしても迷いの世界から抜け出せないでいる、自分も仏に救われる身なのだという、悪人でも救われるという罪業観はキリスト教の原罪よりもずっと身近に感じます。親鸞は人を救うために修行や善行など自分にはできないと、比叡山を下りてしまった人です。衆生を救うために20年間も修行していましたが、自分は衆生の一人、いやもっともっと罪業観は深かった。それでも必ず救われるという阿弥陀仏の誓いを信じた人です。救う側から救われる側に、僧から衆生・大衆・凡夫の側へと身を置いたのです。それが親鸞の信心のあり方でした。20年もの間修行した後のことです。

 私は70に手が届く歳になるまで、自分の力で何とかしようと思っていましたし、そのようにしてきました。しかし親鸞の生涯に学ぶところあって、心理療法に手を出す縁に出会ったといっていいでしょう。人が人を救うことなど、人間の傲慢さの現れではないかという思いを持ちつつ、今日も揺れ動いています。つづく。

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