人生の処方箋・セラピスト愚禿進の我が計らいにあらず e-mail:gutokushin610@outlook.com

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我が計らいにあらず 39 人間というもの

2017年04月04日 | 人生の処方箋

 デクノボーという生き方には、モデルがいた。これは山折氏の推論ではあるが、根拠のない推測ではない。
 宮沢賢治が花巻農学校の教師時代に、このデクノボーに出会っているという。敬虔なキリスト教者・斉藤宗次郎です。彼は内村鑑三の思想に傾倒し弟子になって、一生をその弟子として、宗教者として通しました。当時かなり過激な思想で反戦思想を教員として実践したために、教職を追われた人です。(詳細は山折氏の著作を参照)
 教職を辞した後、宗次郎は新聞配達をはじめる。その新聞配達のやり方が一風変わったやり方であった。彼は敬虔なキリスト者として、誰にも真似できないようなやり方で新聞配達を忠実にやっていた。それが[岩手のトルストイ」とまで評されるようになった。山折氏の著書からその部分を引用すると次のようになる。

 かれの新聞配達のやり方ですが、10メートル行って新聞を配達しては神に祈り、また十歩歩いては感謝の祈りを捧げる。さらに配達の歩をすすめて、河原に下りて神に祈り、・・・・・といった調子だったといいます。また配達のときには、必ずポケットの片一方にあめ玉をたくさん入れ、もう一方には小銭を入れていた。子どもたちに会うとそのあめ玉を与える。病気の人がいると、病床まで訪れて慰めの言葉をかけ、いくばくかの喜捨を置いて、再び配達の仕事をつづける。そのようにして花巻全市を走り回った。配達して歩いた距離がだいたい一日平均四〇キロに及んだというからすごいものです。

 この斉藤宗次郎と花巻農学校の教師になっていた宮沢賢治とが出会うことになるのです。どちらも一風変わっていた。二人は新聞の配達という仕事を介して自然に出会う。宗次郎は毎日のように、賢治の教員室を訪れては、クラッシックを聴いたり童話や文学の話をしたりするようになっていき、親密な交際を続けた。それは戦後になってはじめて明らかになったことであった。

 賢治と宗次郎の年の差は20歳もある。もちろん宗次郎の方が年上であった。賢治は宗次郎からいろいろ教えられるものが多々あったと思う。そして宗次郎の新聞配達の仕方から、あの有名な[雨ニモマケズ]の詩が生まれたのではないか、そこに出てくる「デクノボー」とは斉藤宗次郎のことではないかと私は思う。九五歳まで生きた宗次郎と三七歳で旅立った賢治の二人の間にどのような心の交流があったかはよく分からない。でも賢治は宗次郎を追いかけて先に行ってしまった。

 私は、賢治が自分のことをデクノボーと思って、この詩を書いたのだと勘違いしていた。でもよかった。最後に見つけた目標がデクノボーであって。賢治は向こうの世界に行ってデクノボーになれたのか。きっとなれたと私は思う。この話はここまで。最後に[雨ニモマケズ」を全文載せておく。

  雨ニモマケズ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

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