行き着けなくても一日一歩の気構えで。たそがれおやじの覚醒。
日暮れて途遠し



昨日に続き、2002年の月刊テーミスの記事から。

---------------------
逮捕直前の「肉声告発」 佐藤優前分析官
鈴木先生を裏切った官僚(キャリア)たち
ロシア女性を要求した政治家や鈴木先生の政治力を利用して逃げた官僚は許さぬ
月刊テーミス2002.9月号

取調べ検事に露外交を講義

外務省のラスプーチンと呼ばれた男、佐藤優元国際情報局主任分析官が逮捕されたのは、5月14日のこと。この3か月間、東京地検特捜部直告班の稲川龍也検事が佐藤氏を取り調べているが、彼は鈴木宗男疑惑についてはほとんど喋っていない。鈴木氏逮捕に抗議してハンストをやったり、完全黙秘を貫いたこともあるが、いまは違う。
外交に無知な検事に対して対露外交の歴史やその中での鈴木宗男氏や東郷和彦氏らが果たした役割などをこと細かく講義しているという。また、取調べの合間には「弁護士さんにも対露外交の知識を持ってほしい」と原稿を執筆。100枚を超えるものになっている。
実は、佐藤氏は司直の手に落ちる前の3月末、筆者に対して謎に満ちた対露外交のすべてを語っている。この時点でまさか佐藤氏が逮捕されるとは思いもよらなかった。彼は日露外交の舞台裏から外務省キャリア官僚への批判まで一気にまくしたてた。あえてこのインタビューを紹介することで、鈴木事件の本質に迫ってみたい。

――なぜ、あなたと鈴木宗男氏は対露外交を急いだのか。

佐藤 重要なことは、91年12月ソ連共産党・政府守旧派によるクーデター未遂事件失敗を契機にソ連が解体したこと。ソ連時代の外交はソ連共産党中央委員会国際部と外務省の2本立てだった。ところがソ連崩壊で大統領府と外務省は、基本的に一体になり、共産党中央委員会のような裏部隊がなくなったことが大きい。われわれは当初、ロシアに警戒感を持っていたが、交渉の過程で相互に信頼関係が生まれた。彼らは、1回約束したら守るという認識をもった。彼らはもう共産主義には戻らないという確信があった。

――鈴木氏が本格的に関わりだしたのはいつからか。

佐藤 97年7月、橋本首相の経済同友会演説。鈴木先生が本格的に絡みだしたのは、まさにこの時だ。これは信頼、相互利益、長期的視点といったもので、要するに日本とロシアは長期的に仲良くしよう、早く領土問題を解決しようということだった。「東からのユーラシア外交」という発想があった。

--どういうことか。

佐藤 ソ連崩壊で冷戦は終わった。ところが、結局ロシアはアメリカや西ヨーロッパと同じエリートクラブには入れなかった。その一方で、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大がある。つまり旧東側のポーランド、チェコ、ハンガリーが新規加盟国になり、「西からのユーラシア外交」が始まる。これに対して橋本首相が提唱したのは、21世紀は日米中露のアジア太平洋地域に重点を置いたもので、これは日露関係の新たな展開を意味する。これが「東からのユーラシア外交」なのだ。
日米中露の4か国のうち日本だけ安保理常任理事国ではない。日本だけが核兵器を持っていない。ところが、ロシアカードを握ることで、ズバリいうと大きくなってくる中国を牽制する狙いがあった。ここで日本とロシアは利害が一致したのだ。それを踏まえて鈴木先生は本格的戦略に入った。

北方領土問題について80年代前半まで問題の存在すら認めなかったソ連はエリツィン時代、東京宣言(93年10月)、クラスノヤルスク合意(97年11月)、川奈会議(98年4月)、モスクワ宣言(98年11月)などで北方4島の帰属問題を解決して平和条約を締結し、日露関係の正常化を目指した。

プーチンを裏で操る男とは

――98年11月は小渕首相がロシアを公式訪問している。

佐藤 この時エリツィンの健康状態は最悪だった。最初の会議なんてほんの2~3分だった。ここで、国境画定委員会と共同経済活動委員会については合意はできたが、「自由訪問」がまったく受け入れられなかった。1、2回目の会談もエリツィンは全く返事をせず、3回目に小渕首相は「ここに鈴木君がきている。この人は北方4島を選挙区とする政治家で、私の後継者だ」といった。そこで90歳になって余命幾ばくもない元道民の話を出した。この「余命幾ばくもない」という言葉を聞いてエリツィンは涙を流す。これで「自由訪問」が成立したんだ。

――そして99年12月31日にプーチンが大統領代行になる。

佐藤 僕と鈴木先生が分析してプーチンは後継者として本物だと判断した。鈴木先生はショーヒンという元副首相と親しくて、独自に情報を持っていた。僕も必死になって情報を集めた。
プーチンとロシア外務省の間には何かわからない“壁”があった。だから外交ルー卜でやっても埒が開かない。
外政坦当の側近はいたが、どうも話が通じない。こういう時の政治家の勘は凄い。「これは誰かいるぞ」となった。そして1番、その人物を見つけろ、2番、それとルートをつけろ、3番、そいつに俺のメッセージを伝えろ―――こういう指令が森首相から来た。
それで00年10月くらいだったかな、東郷氏(和彦元欧亜局長)が「俺が全責任を負う。お前がやってくれ」というんだ。僕はいった。「本当に全責任を負えるんですか」とね。条件は「総理のほうからもいわれているが、絶対に秘密を洩らすな」ということだった。
僕はあちこちのルートを使った。特にイスラエル(モサド)のルートを調べた。そうしたらある男が浮かび上がった。それはプーチンのKGB時代の先輩で、当時安全保障会議の事務局長(現国防省)を務めるセルゲイ・イワノフという男だった。そこで、11月のブルネイ(APEC)での森・プーチン会談で森首相は「鈴木を送るからあなたの最も信頼しているセルゲイ・イワノフ氏に会わせてやってくれ」と頼んだ。
正式な記録上には残っていない、それで12月25日にセルゲイ・イワノフ――鈴木会談が実現するわけだ。これは、川島(裕元事務次官)も知っている。事務次官になる前は彼はイスラエル大使だ。

――あなたがそういう舞台裏で動くことにキャリアは面白くないのでは。

佐藤 小寺(次郎元ロシア課長)が面白くなかったのは事実だろう。「俺はキャリアなのに、なぜ情報が迂回されているのか」とね。しかし、あの人はお喋りで、東郷氏が「小寺は国益を守れる男ではない」と遠ざけたことがあった。
そこから軋轢が始まった。対露交渉の過程でも、朝日新聞の女性記者にどうも情報が洩れていたこともある。

ロシア女性を要求した代議士

――裏方の苦労はわかるが、二元外交という批判もある。

佐藤 しかしそこで段階的解決案が見えた。まず、2島を返してもらい、残り2島についてきちんとした話し合いをして条約をつくる。だから2島ポッキリではなく、プラスアルファというものが念頭にあった。国後、択捉も日本領だという絵が相当見えていたのだ。これが鈴木外交のすべてだよ。

――そこへ田中真紀子外相のことでバタバタやってしまった。

佐藤 そう。ところがもっと大きいのは、9.11以降、プーチン政権が先ほどいった「東からのユーラシア外交」というものにほとんど関心をなくし、アメリカ一辺倒になったことだ。米露接近は新たな棲み分けを意味し、これでバーターが成立したら、北方領土間題なんて解決する必要がない。それを何とか東に目を向けさせようとしていたのが、鈴木戦略だったが、それもすべて潰されてしまった。で、ロシアはもう完全に日本を信頼しなくなった。

――佐藤機関とまでいわれたが、省内に反佐藤グループもあったのか。

佐藤 われわれはロシアスクールといわれたが、強いていうならソ連スクールというものが残っていた。彼らはいまだにあの国が共産主義のような別の世界観に立っていると思っていた。
現役でいうと小寺氏であり、OBだと枝村氏(純郎元ロシア大使)や兵藤氏(長雄元欧亜局長)のような人物だ。これ以外にも鈴木先生の政治力に頼りながら裏切ったキャリアがいっぱいいるよ。

――政治家はどうか。

佐藤 僕は、在モスクワ大使館当時、自民党の小渕訪ソ団一行のアテンドをしたことがある。彼らは、チャーター機2機を連ねてモスクワに来たが、その中の一部の議員が、「オイッ、夜の観光に連れて行け」といったものだ。
僕は16台の車を用意してその手の女性のアパートに彼らを引き連れていった。
とくにひどかったのが、T議員やY議員(実名)だった。多くの日本の政治家は外交というと、夜の女性のことしか興味がない。少なくとも鈴木先生はそんな卑しい政治家じゃなかった。
(ジャーナリスト・藤本順一)






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 佐藤優前分析... 背景に、爆笑... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
 
この記事のトラックバック Ping-URL