行き着けなくても一日一歩の気構えで。たそがれおやじの覚醒。
日暮れて途遠し



幣ブログ10.3の「米原万里さんと佐藤優さん(2)」でご紹介した亀山郁夫氏の「自壊する帝国」の格調高い書評です。
文學界2006.8月号に発表されたものですが、文學界は読者が限られているように思えますのでここで全文紹介させていただきます。ご了承願います。

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「自壊する帝国」佐藤優
類稀な「人間力」を見せつける凄まじい一冊

亀山郁夫 亀山郁夫(かめやま いくお、1949年生 )東京外国語大学教授。専門は、ロシア文化、ロシア文学
文學界2006.8月号 味読・愛読 文學界図書室

どれほど混沌とした時代にも、一つの状況、一つの現象を作りだしてしまう天才がいる。
そうした天才の、類稀な「人間力」を見せつける凄まじい1冊、それが『自壊する帝国』てある。この本の出現を奇跡的と呼ぶことができるなら、そこに描かれている事実が奇跡的だからに他ならないが、驚くべきことに、それらの事実の中心に著者の佐藤優がいる。
歴史と人間との奇しき出会いを描いて、これほどにスリリングな読み物はない。

1991年の8月からその年の12月に向かう約5ヶ月間のソ連崩壊の時の流れは、私もむろん鮮明に記憶している。ゴルバチョフの政治手法にいくつもの危うさを感じながら、私はつねにペレストロイカの側に身をおいてその行方を見守っていた。当時の多くの人々と同様、私もまた、ソ連社会が本来のあるべき姿へ生まれかわるために不可欠な通過儀礼と-連の改革をみていた。
そうした私のソ連観の原点には、70年代半ば、ブレジネフ期のロシアを訪れた際に受けた、忘れがたい印象があった。「ソ連人」と呼ばれる人々の清貧には、温室の蒸れた芳香のように甘い「黄金時代」の安らぎがある、ソ連式幸福には言葉につくせないアウラがある、と。他方、ソ連維持の願いは、ある意味で社会主義の理念そのものへの共感とは別ものだったような気もする。あまりに不幸な歴史しか歩めなかった「ソ連人」の傷が、体制の転換によって一気に償われるなどとはとうてい思えなかったし、私自身、KGBによる拘束、尋問といった忌まわしい過去があるだけに、なんとしても、ソ連社会の正常化に期待をかけざるを得なかったのだ。その複雑な思いは、ペレストロイカの始まりとともに強まり、ソ連の「崩壊」は、少し大げさにいえば、私のなかの「黄金時代」の喪失と重なりはじめていった。要するに、「自壊」といった、相対主義的なまなざしではとても語りつくせる物語ではなくなっていたのだ。

本書は、組織神学の研究者で、みずからもプロテスタントである佐藤優が、日本大使館に勤務する一外交官として目撃したソ連崩壊のドキュメントである。経験レベルで、私とはもう雲泥といってよい開きがある。思想的に「反社会主義」の立場に立つ著者であるから、すでにその時点で、ある種のシニシズムとともに崩壊を見、「自壊」としてそれを語りうる特権的な立場にあった。それは、わが国の多くのソ連学者のメンタリティとは根本から異なるものだが、かといって、本書にあふれかえる著者の個性には、プロテスタントという狭いレッテルではとうてい収まりきらない、 はるかに根源的でアナーキーな何かがひそんでいるように思える。

そもそも、「崩壊」を「自壊」と割り切ることのできるメンタリティは、社会主義の敵役たるロシア正教にもなかった。なぜなら、ソ連当局とロシア正教は、長い歴史のなかで徐々に相補的な関係を築いていったからである。ソ連末期、守旧派と呼ばれる党幹部の一部が、もはや人々の心をとらええないマルクス・レーニン主義にかわって、ロシア正教を統合理念に持ち出そうと企んだのも、それなりに歴史的背景があった。
本書を読み進むにつれ、国家の「崩壊」を「自壊」として割り切るメンタリティは、佐藤本来のものというより、佐藤にとってまさにメフィスト的な導き手である「サーシャ」(ことアレクサンドル。カザコフ)の執念そのものであったことが明らかになる(「ボルシェビキ革命はロシア特有の病理現象だ」「ソ連自体が精神分裂病だ」)。他方、「サーシャ」の分身にして弟子である「ミーシャ(著者マサル)」の口からは、そうした冷徹なシニシズムなど、つゆほども漏れでることはない。主義主張をいかに異にする相手であれ、高次の意味での「外交官」としての節度がつねに保たれているのである。対話者として理想的ともいうべき耳の持ち主である「マサル」に、ソ連の政治家や知的エリートたちは、まるで「告解」を行うような安堵感とともに情報を与え、みずからのアイデンティティの確認を求めた。それは、何といっても、自己保身を求めない、まっとうな政治家の前では、人並み以上に膝をおる誠実さが「マサル」自身に備わっていたからだ。まさに「人間力」--。
これは、私のたんなる空想にすぎないが、敵味方を問わず、彼らは、マサル」に、一種の「聖愚者」としての面影を認めていたのではないだろうか。

異論もあるだろうが、ソ連が「自壊」を回避する手立てはあった。しかし、少なくともゴルバチョフには、中国・天安門事件に類する暴力を行使するだけの「勇気」はなかった。
情報公開の名のもとスターリニズムの悪をあれほど執念深く掘り返してきた彼として、自ら大テロルの悪夢を演出するわけにはいかなかったのだ。私なら、ゴルバチョフの弱腰や「ふやけたクーデター」こそ、ペレストロイカの良心ないし精神的成熟を裏づける指針とでも考えるところだが、佐藤は、おそらくキリスト者あるいは愛国者としての直観をとおして、別の真実をかいま見ていたのだろう。「自壊」は、なにも「帝国」に定められた固有の運命ではなく、「国民的生命のうちに潜む偉大なるもの、高貴なるもの、堅実なるもの」〈大川周明〉の喪失のなかで、日本を含め、すべての国家に胚胎すると序章に書いている。

最大の読みどころは、第八章「亡国の罠」――。
1991年1月、独立派鎮圧のためリトアニアに侵攻したソ連軍との衝突で、14名の犠牲者を出した「血の日曜日事件」を語るくだりである。この時期、かりに一人でも死者が出れば、ゴルバチョフ改革の大義は失われるという認識が西側にはあった。南部ではすでに大規模な武力衝突が起こっていたが、ヨーロッパに近いバルト三国でそれが起こることは、ゴルバチョフ政権の体面が決定的に泥にまみれることを意味した。それだけに、独立派が篭城する最高会議ビルにソ連軍が突入するかどうかは、まさに「死活的な」意味を帯びるものとなった。この時点で、最高会議ビルに立ち入り、佐藤がもたらした「強行突破はしない」との党のメッセージは、大いに独立派を勇気づけ、 リトアニアのみならず、ソ連の運命そのものに関わる一大分岐点となった可能性があるのだ。
驚くべきことに、佐藤は、これほどの「功績」にも少しもおごり高ぶらない。そのことは、佐藤がみずからを、この巨大なドラマの一登場人物として謙虚に位置づけていることを物語っている。そしてその姿勢は、当然のことながら、本書の構造と方法それ自体にも関わっている。端的にいうならば、ドストエフスキー流のポリフォニー--。「自壊」の物語を、冷笑のモノローグから救いだしているのも、まさにこの多声性の原理にほかならない。こうして、登場人物の一人一人は、声々の乱反射のなかで自立した他者としての像を結び、著者のモノローグの犠牲となることを免れるのだ。

しかし問題は、そうした方法論のみに関わるわけではない。「黒い大佐」アルクスニスが語る「カミカゼ」精神にも、ゴルバチョフに裏切られるクプツォフ第一書記の「恨み」にも、聴き手として反応し、共感できる恐るべき精神の振幅--。
登場人物の一人一人が、佐藤というオールマイティな知性の分身たちかと邪推させるほどヴィヴィッドな輝きを放つのは、他者の声を映し出す再生装置としての彼の驚くべき誠実さゆえと考えていい。やがて 充満するウオトカの匂いのなかから、イデオロギー、哲学、政治戦略の違いをこえ、読者の耳にはっきりと聞こえてくる声がある。差異化きれた欲望を駆動力として生きる人間たちの前で「社会主義」の理念を実現することがいかに困難かということ。
「グラースノスチ(公開制)でロシア人の欲望の体系が変容してしまったんだ。たとえば『31(サーティ・ワン) アイスクリーム』だ。…社会主義思想は欲望に打ち勝つ力をずっと昔に無くしていた」「ブレジネフは頭がよかった。ソ連人を支配するのは唯物論(マテリアリズ)ではなく物欲(ベシズム)だということを理解していた」(イリイン)
「自壊だよ。ソ連帝国は自壊したんだ。1991年8月の非常事態国家委員会によるクーデター未遂事件は、政治的チェルノブイリ(原発事故)だ」「ゴルバチョフが1985年に権力の座に就いたときに、既にソ連は崩壊していたんだ」(ブルブリス)

では、佐藤優という類まれな語り手から、私たちはいま何を学ぶべきなのか。この「自壊」の物語は、根底において何を語りかけているのか。
一言でいうなら、佐藤は、崩壊した「帝国」の未来について、何も語りかけてはいない。そこに示されているのは、一国家が自壊を回避し、まっとうに生きのびていくためのささやかな指針である。佐藤の信条である「筋を通すこと」は、自壊しない国家の「本源的な力」にどこかで通じている。ゴルバチョフに対する評価がことのほか厳しくなるのは、 結局のところは、一国を預かる人間の度量という問題があるからだ。
しかし、その「本源的な力」そのものについても、佐藤はまだごくわずかしか語っていない。新たな独裁の道と入ろうとするプーチン政権下のロシアについても語るべきことが多くあるはずである。新たな独裁はどこまで許されるのか。マルクス・レーニン主義に代わって、巨大な国家を束ねる統一原理とはなにか。ロシア正教ははたしてそれに代替しうる力なのか。それとも、スターリン時代すら容認する愛国主義こそが救いなのか。「黒い大佐」アルクスとの対話が印象に残る。「クーデターでは国家を維持できない。 ……共産主義者を権力の中枢から摘み出し、愛国者により非共産主義的なソ連を強化することを考えていた」「ファシズムというよりはユーラシア主義だよ」

翻って、グロテスクな拝金主義と弱肉強食の「哲学」が跋扈する現代の日本で、これほど没私的に行動する人間を法の裁きにかける力とは、時代とは、何なのか。「本源的な力」を失った日本の、佐藤優に対する「冷笑」をこそ恐れるべきではないのか。




コメント ( 1 ) | Trackback ( 3 )



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コメント
 
 
 
Unknown (kks)
2006-10-30 22:40:02
格調高いだけでなく 亀山郁夫さんの素晴らしいご人格が 現れています。机上での研究だけでなく厳しい体験を通じながらロシア文化等の研究をなさってこられたからなのでしょうか、洗練された格調高い中に深みと心の温かさと清々しさも加わり 大変素晴らしい書評ですね。作品だけでなく 作者である佐藤優さんの私的内面までを素晴らしい程的確に分析された なんと心地よい書評なのか と感じます。 管理人様 素晴らしい記事を ありがとうございます。
 
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