岩城和平の修行記

インドやチベットでの10年以上に渡る修行の体験談。

とにかく暑いブッダガヤ。

2006-08-03 21:03:28 | Weblog
私にとっては前回の2年間のインド滞在中、ネパールにて多少のチベット体験はしたものの、本格的なものではなかった。
しかし、今回のブッダガヤのチベット寺は、本腰を入れてチベット佛教の修行を始める第一歩の地として、決めていたので、着いたときから相当気合いが入っていた。
そして、まずこのチベット寺に部屋を借りて荷をといた。
しかし、それにしても、恐ろしい暑さである。聞いたところによると、45度を超えているという。
とんでもない暑さである。建物のみならず、あらゆるものが太陽で熱せられて、熱を放射している。
とにかく暑い・・・。
ひとまず、部屋の床に水をまく。天井で回っている扇風機からは(インドの扇風機はほとんどこの形式)熱風が降り注ぐ。扇風機をまわさない方がましなくらいである。よく、あつ〜い風呂に入った時にお湯をかき混ぜると飛び上がるくらい熱くなるのと同じ原理である。とにかくへこたれる。
この時期インド人達はほとんど外で寝ている。どこの家をのぞいても、ベッドを外に出して庭や屋上で寝るのである。日中に降り注いだ太陽の熱気はあらゆるものに浸透し、夜中じゅう熱気を放ち続けるのである。朝方にやっと冷めてきたかと思うと、東の空から赤々と灼熱の太陽が昇ってくるのである。また、灼熱の一日が始まるのである。また、この時期は毎日0.数度づつ温度が上昇していく。日に日に暑さは増していくのだ。
そして、待ちに待った雨期の到来。恵みの雨は大地を冷やし、生き物全てに涼を与えてくれるのである。
私たち日本人は雨が降ると、服がぬれるとか、洗濯物が干せないとか、せっかくの休日なのに。とか、雨そのものが恵みであると感じる事はあまり無い。しかし、インドなどの国ではこの雨を待ち望むのである。
「もし、今日雨が降らなければ、明日は今日より更に暑い・・・」
これは、とてつもなく大きな問題である。そこで、この時期になって、雨がなかなか降らないと、色々な所で雨乞いの儀式などが執り行われるのである。
しかし、暑いなどとも言ってられない。喉もカラカラなので、ちょいと外出。

ブッダガヤ。

2006-08-03 20:24:39 | Weblog
私の仏道修行の出発の地であり、世界中の仏教徒にとって、最大の聖地であるブッダガヤに到着した時の感動は、ひとしおだった。
4月、ブッダが成道した菩提樹と、共にそびえる大塔のまわりはブーゲンビリヤのピンクの花一色であり、猛暑の中のオアシスだった。2500年来、あらゆる時代のあらゆる国の仏教徒達が巡礼にやって来てはこの光景を目にして来たのだ。
それはカルカッタ。ヴァラナシ。ガヤと、インドの中で最も貧しく、かつ、もっともインド的な光景を目に焼き付けて来た私の目にはあまりにも美しく、天界にたどり着いたような錯覚に陥るかのようだった。
しかし、そうこうしているのもつかの間。早速ブッダガヤの名物である、日本語をしゃべるインド人の洗礼を受ける事になった。「こにちは〜!アサガヤ、セタガヤ、ブッダガヤ!」「千駄ヶ谷はどうした?」なんて聞こうものなら、向うのペースにハマってしまい大変な事になってしまう。そこで、ここはインド慣れした人格に出て来てもらう。今までの感激していた私はどこへやら・・・。突如としてインド人達を蹴散らし、目的地に向かって歩き始める。この人格はインドではほとんどの時間をヨーロッパ人と暮らしていたので、彼ら流のやり方が身に付いた事で形成されたもので、意識を変えると一瞬にして、キャラの移動が起こるのである。
そして、必死に話しかけてくる彼らを完全に無視し、全く存在しないかのようにふるまいながら私は目的地であるチベット寺に到着したのである。

ヨーガから仏教の修行へ

2006-04-02 11:58:27 | Weblog
このようにして、私はここから本格的に修行の人生を歩み出した。
私はこのアシュラムでヨーガの方法と実践を学んだ。しかし、その後、師からのアドヴァイスもあり、佛教の修行に入っていくこととなった。
これからは、思いつくままに私の修行経験を回想していこうと思っている。

仏教と言えばまずブッダガヤである。ブッダが悟りを開いた仏教徒にとっての最高の聖地である。
私の仏教の本格的な修行は20歳のとき、このブッダガヤから始まった。

クリヤーヨーガ

2006-03-16 22:24:33 | Weblog
この頃の私のメインの瞑想はクリヤーヨーガであった。
クリヤーヨーガとは、パラマハンサ・ヨガナンダによって広められた事でも有名なヨーガである。
クリヤーヨーガは様々なテクニックからなるタントラのヨーガであり、意識を背骨にそって上下動させる事で人間の進化過程を一気に縮めることが出来ると言われている。このヨーガによって私達は気の遠くなるような輪廻の渦から解脱する事が出来るというわけである。
いずれにしても、そんなことはやってみなければわからないということで、私は毎日この瞑想の訓練にはげみ、修行三昧の毎日を過ごしたのであった。

本格的に修行が始まる。

2006-02-24 17:58:00 | Weblog
かくして、私の本格的な、修行が始まった。
日々のアシュラムでの日課をこなしながら、自分でも瞑想を行い、修行にはげんだ。
私はここで、タントラヨーガ。クンダリニーヨーガ。クリヤーヨーガ等の瞑想法を師から伝授され、カルマ・サニャーシンも受け取った。カルマ・サニャーシンとは、修行者として生きる事を誓い、生涯修行に専念する事である。頭を剃り、オレンジ色の衣を受け取り、スワミ・ターラナータ・サラスヴァティーという名前を頂いた。仏教における出家と同じようなものである。
この時に、自分の名前と、前世との因果関係。そして今生での私の悟りと私の未来についてのいくつかの秘密を、師は私に明かした。
この時から師は私にとって父のような存在となり、私の魂を導く唯一の存在となったのである。

ビハール スクール オブ ヨーガ

2006-02-16 22:33:26 | Weblog
私の師、スワミ サッチァナンダは、1923年に北インドのアルモーラという小さな村で生まれました。19歳の時に、リシケシという所でアシュラムを主宰するスワミ シバナンダと出会い、師の修行が始まりました。約12年間その側で暮らし、その後ネパール、ビルマ、スリランカ、アフガニスタンなどで修行の旅をし、1943年にはサニヤーサ(出家のようなもの)を受け、シバナンダの元で奉仕。そして、1963年にビハール・スクール・オブ・ヨーガを設立し、以来ヨーガを普及するために休み無く働き続けています。師は特にタントラ・ヨーガのグルとしても有名です。
師の設立したこのヨーガ・アシュラムはその頃は古いアシュラムと新しいアシュラムの二つがあり、古いアシュラムのほうでは主に長いこと師の弟子として修行しているインド人の弟子たちが住んでいました。一方新しいほうのアシュラムでは、西洋から師の教えを学びにきている弟子たちが多く滞在していました。
私は若かったせいもあるとは思いますが、ここでの生活に馴染むのが大変でした。
毎朝、6時には朝食。私は自分の瞑想をこなす為に、毎朝4時には起きて修行をしました。
一日中、瞑想やカルマ・ヨーガ(労働)、学習などが行われました。
私の人生の中での始めての僧院生活でしたから、その生活のペースをつかんでいくのは至難の技だったのです。





師との対面

2006-02-16 17:43:21 | Weblog
アシュラムに到着して、まずは部屋が割り当てられた。
荷物をほどき、ゆったりとくつろぐ。窓から見える綺麗に手入れされた庭が、沢山の花々で飾られ、真昼の陽光を浴びて美しかった。そのまましばらく夕方近くまでここまでの旅の疲れを癒すように、ぼーっとして時間を過ごした。
しばらくすると、師からの面会の許可が出た。
待ちに待ったスワミジ(師のこと)との対面である。
部屋に入ると、その部屋の照明は暗めで、大きな樹のように幾重にも枝分かれしたランプがあり、そのひとつひとつに香油が焚かれていた。スワミジは部屋の一番奥まったところで、ゆったりとした椅子に腰掛けていた。
私は、その場の雰囲気や、スワミジの威厳の前でめちゃめちゃ緊張していた。
そして、スワミジの始めて発した言葉が、
「さあ、こっちに来なさい。待ってましたよ」
スワミジの待ってたよ。という言葉に、私は今までの旅の道中の混乱や不安が全て吹き飛んだ。
私はイギリスで、はっきりと、スワミジに呼ばれるという体験をした。しかし、それは証明出来るものではなく、時間が経つ毎に、不安へと変わっていっていた。しかし、待っていたよ。と言われ、その不安の全てが吹き飛んだのだ。しかも、この時は数日後にスワミジによるクリヤー・ヨーガの伝授が行われるという時で、大変重要な時であった。全ての点と点が線になり、まさにその場所にいることが完璧なこととなった。
その後の、会話はあまり記憶には無い。何しろ、待ってたよと言われて、頭が真っ白になってしまったのだ。
ただ、スワミジの慈悲深く微笑むその笑顔だけが心に焼き付いている。
言葉というのはあまり重要ではない。
その時に、交わされた意識下におけるコミュニケーション。
私にとってはそれだけで十分である。
私は満たされた。
これが師との最初の出会いであった。




師の居所

2006-02-12 00:42:53 | Weblog
次の朝。身支度を整え、チェックアウト。デスクひとつのカウンターだったが、ホテルのおやじは優しかった。しかも、晩飯もサービスしてくれた。旅の始めの頃はだまされることも少なく、良いインド人にめぐりあっていた。列車の一件は別として・・・。いずれにしても、このおやじの笑顔に救われた気がした。そして、部屋の代金を払い、最後にだめもとで聞いてみた。
「スワミ・サッチアナンダを知っていますか?」答えはあまりにも以外だった!
「勿論知っている。ここから列車で3時間」
なんという導きだろう!私は感激した。なぜならばインドは広い。しかも、ヨーガ・アシュラムは全国に無数にある。わたしが最後にニューデリーで出会った紳士がランチのアシュラムでないところを私に紹介していたら、私はここには到達し得なかったであろう。まさにイギリスで瞑想中にサッチアナンダに呼ばれたという体験をしたのは、間違いではなかったのかもしれない。
私はすこし、元気が出てきた。それから、詳しく列車の時間などを聞き、そのホテルを後にした。
最後に乗った列車はひどかった。椅子も無く、鶏、ヤギ、野菜、色んなものが人と一緒に同乗し、ぎちぎちに狭かった。わけのわからない液体が床を私のほうに向かって流れてきたり、恐ろしい3時間だった。しかし、気にはならなかった。私は師の居所を突き止めたのだから!!
そして、駅に着き、ホテルのおやじに教えられた通りに、乗り合いジープのスタンドまで行き、アシュラムまで行くジープに乗り込んだ。ここからさらに1時間とちょっと。
そして、私は遂に、夢にまで見たアシュラムの門の前に立っていた。



涙が出るほど辛いカレー

2006-02-12 00:32:46 | Weblog
パトナはむかし、ブッダが活躍した地域で、ブッダのスポンサーであったマガダ国の首都がおかれていたところである。最も古い町であり、4世紀以降はナーランダー大学という仏教大学がイスラムの侵攻までの間存在したことで知られている。数千人から一万人規模の僧侶たちが修行したと伝えられており、その中には西遊記の三蔵法師もここで仏典を学んだ。天竺とはインドのことであり、玄奘三蔵が目指したのも、この地である。
その、パトナの地に到着し、インド人のおにいさんからも解放され、ホット一息。しかし、次の問題。駅の前にはおびただしい数の自転車リキシャがならび、さっそく旅行者目指して群がって来る。まただ・・・。この国に来て、安らぐ瞬間など全くない。ひたすら戦うばかりである。もうひとつ問題点があった。それは、私は旅行する気でここに来たのではなく、しかも、フランスからきたので、ガイドブックというものを持っていなかったのだ。ここまで来るのも、人からの、(しかもインド人)インフォメーションのみが頼りであった。さて、ここで、困った。どこのホテルに行けば良いものか???
恐る恐るリキシャのドライバーに案内してもらい、一軒のホテルにチェックイン!汚いホテルであったが、まずまずのところで神様に感謝であった。しかし、その後ベッドでごろごろしていると、夕方で暗くもなってきたこともあり、だんだん落ち込み始めてきた。「俺何してんのかな?」そんな時、ドアをノックする音。ドアを開けてみると、そこにはホテルのおやじが立っていた。「食事はどうするんだ?」インド人からしたら、男なのか女なのかも不明な、十代の子供が一人でうろうろしていて心配になったらしい。この後ヒゲを生やすまで、しょっちゅう男か?女か?と聞かれたものだ。
しばらくすると、ご飯と、赤いカレーが運ばれてきた。そして一口目を口に運ばないうちに停電。ローソクに灯を灯す。さらにわびしさが募る。ため息まじりにカレーを一口。次の瞬間に火を噴いた!!未だかつて食べたことの無いような辛さ。もう泣くに泣けずに、食えるだけ喰った。やけぐいというやつ。ゆらゆらと揺れるローソクの炎のもと、こんなに辛いカレーを食べている自分が惨めに思えて仕方がなかった。
私は間違っているのだろうか?こんなところまでやってきて・・・。正しい選択だったのだろうか?
思いっきり落ち込んで、(最悪の落ち込みはイギリスで経験済みだったから、ちょっとはましだったかな?)一人寂しく、眠った。疲れていたのだろう。

魔の一泊二日列車の旅。

2006-02-11 22:51:38 | Weblog
インドでは、列車に乗るのも一苦労である。自分の予約した席がどこにあるのかも見つけるのにもコツがいる。この始めての列車に乗るときも、結局はタイムオーバーで自分の席に座ることが出来ずに、インド人のあるグループに少し場所を空けてもらって座ることが出来たのである。ところが、このグループの一人の男性が執拗に私に迫ってくるのである。下心を持って男性に抱きつかれたのは始めてではないが、(小、中学生のときもよくあった)今回は2等寝台という逃げ場の無い場所だったので、大変だった。よく、あなたは何々さんに似てるね。とかいわれることがあるが、たとえば、「あのひとは反町に似てるね。」とか、「唐沢に似てるね」とか・・・。ところが、私の場合、小学校のときは山口百恵。このころは原田知世に似てるといわれていたぐらいなので、持てない男の慰み者になりやすかったのでしょうか?まあ、助かったのは、このグループのリーダーの老人が時々、仲裁に入ってくれたこと。「これ、やめろ!」とね。しかし、こんなことが、一泊二日電車の中で繰り返されていたのでした。わたしは無事でしたが、ひとまず、ひげはやしたインド人が40時間も私にへばりついているという光景はいただけないですね。
そんなこんなで、すっご〜く大変な思いをしながらも、無事パトナという、町に到着したのでした。