映画と本の『たんぽぽ館』

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「冬虫夏草」 梨木香歩

2017年04月11日 | 本(その他)
ダムに沈んだ村々を思う

冬虫夏草
梨木 香歩
新潮社


* * * * * * * * * *

疏水に近い亡友の生家の守りを託されている、
駆け出しもの書きの綿貫征四郎。
行方知れずになって半年あまりが経つ愛犬ゴローの目撃情報に加え、
イワナの夫婦者が営むという宿屋に泊まってみたい誘惑に勝てず、
家も原稿もほっぽり出して分け入った秋色いや増す鈴鹿の山襞深くで、
綿貫がしみじみと瞠目させられたもの。
それは、自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすっくと伸ばし、
冬なら冬を、夏なら夏を生きぬこうとする真摯な姿だった。
人びとも、人間にあらざる者たちも…。
『家守綺譚』の主人公にして新米精神労働者たる綿貫征四郎が、
鈴鹿山中で繰り広げる心の冒険の旅。


* * * * * * * * * *


本作は『家守綺譚』の続編ということで読み始めましたが、
これは主人公綿貫征四郎の視点を借りた、
著者の鈴鹿の永源寺ダムに沈んだ村々への祈りであるように思えました。


綿貫は、行方知れずの愛犬ゴロ―の姿を見たものがいる、という噂を信じ、
鈴鹿の山中に分け入ります。
そもそも本作の舞台はいつごろなのだっけ?と思うのですが、
100年少し前というところのようです。
大正に入ったくらいか?
都市部はいざしらず、
山村ではまだいかにも江戸の昔に近い生活が続けられている様子。
そこでは、天狗や河童もいて、
イワナの夫婦が宿屋を営んでいたりするのです。
人々はそれを信じるものもいれば、まやかしと思うものもいる。
まだ完全に否定されていないというあたりの時代とも言えます。
綿貫は、亡くなった友が掛け軸から出てきて未だ交友を深めているくらいですから、
こういった存在にはとても近いのです。
幾つかの村を訪ね歩き、出会って一夜のねぐらを与えてくれる村の人々もまた、朴訥。
山中に分け入ると言っても常に愛知川があり、
その上流を目指している形になります。


そんなある時、例の高堂があらわれて、言う。

「ひどい話なのだ。
相谷、佐目、九居瀬、萱尾の村村が水底に沈んでしまうという。」
「今すぐではない。将来のことだ。」


つまりこれはこの4つの村が後にダム湖のために水没することを指しているのです。
昭和47年、永源寺ダムですね。
実は梨木香歩さんのエッセイ集に「水辺にて」というのがあり、
その中で、彼女が水に沈んだ村のダムを訪れたことが書かれているのです。
すごく印象的で、心に残っていました。
(それがこのダムのことだったかどうかは忘れました!)
すなわち本作で著者が一番言いたかったのは
このことなのではないかと思いました。
今はなき、水底の村への追悼。


最近読んでいる池澤夏樹さんの著作で
南の島に起こる不思議が、いかにもありそうなことと思えた私ですが、
この日本だって、ほんの少し時を遡れば
こんなふうな理屈では語れない不思議なこと、不思議なものが溢れていたのだなあ
・・・と、改めて思いました。

「冬虫夏草」梨木香歩 新潮社
満足度★★★★☆
図書館蔵書にて


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