イエス様の生涯と愛(抜粋) 文鮮明 9

2016-12-07 22:00:38 | イエス様
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 ですからイエス様は、この地に来られて、まず反対する人よりも、人をしてイエス様に対して反対させる霊的なサタンと対決しなければなりませんでした。このような闘いからキリスト教の歴史が始まったことを知らなければなりません。
 では、サタンの本質と対決するために現れたイエス様は、彼の生活圏内において、まず何を表示して現れたのでしょうか。サタンができないことをしなければなりませんでした。このような責任を完遂するために、彼が生活圏内で実践的な行動を提示したのが、今日のキリスト教の福音なのです。
 み言も、彼の心も、彼の生活も、彼の生涯も、彼の死までも、サタンができない条件を探し立てるためのものでした。このようなイエス・キリストの生涯路程を皆さんは知らなければなりません。天理法度が厳然としてあるので、言い換えれば、法度を中心としてすべてを治める神様がいらっしゃるので、イエス・キリストは、この天理法度によってサタンを分別したのです。
 サタンの本質は驕慢と血気です。このような性質によってこの世の人に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜によって、この世の人に現れたのです。
 イエス様は、愚かさから、温柔、謙遜な立場に立ったわけではありませんでした。どこの誰よりも最高に高くあり得る栄光を享受することができたのですが、イエス様はこれをすべて捨てて、温柔、謙遜な立場に立たれたのです。サタンは、このようなイエス・キリストと対決し、闘おうとしましたが、サタンには、神様の前に屈服しなければならない条件があることを知っていたので、イエス様は最後まで温柔、謙遜であられたのです。それで、サタンの本質である驕慢と血気とは反対の温柔、謙遜をもって現れたのです。
 また、厳然として天理法度があることを知っているサタンなので、ついにイエス・キリストを認めるようになったのです。すなわち言うなれば、温柔と謙遜をもって進めば、サタン世界も自然屈伏するのです。このような原則を知っていらっしゃるイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取ったのです。このように温柔、謙遜な立場に立ってこそ、中心を通して役事する神様に行く、新しい道を開拓し得ることを皆さんは知らなければなりません。
 また、イエス様は何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順とは応じ得る環境で命令に従うことであり、服従とは応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人々にこのような従順と服従の道理を教えてくださいました。これもまた、サタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を遮るためのものです。
 サタンは自分を中心として、人がどうしようと関係しない存在です。これがもう一つのサタンの本質です。それゆえ、サタンのあとを追えば、不幸になるのです。それでイエス様は、すべての人間が自分を信じ、自分に従順に従い、天に従うように教えられたのです。人々は、そのようなイエス様のみ意を知らず、かえってイエス様のことを神様のみ旨に不義なる人だと思いました。このような立場で、言葉では、表し難い蔑視と迫害を受けながらも、イエス様は従順の道を開拓していったのです。
 またイエス様は、犠牲と奉仕の精神をもって現れました。実際のところ、天の栄光に代わって神様のひとり子としてこの地に来られたイエス様は、万民と万物、サタンまでも主管し、彼らの犠牲と奉仕を受けるべき立場でしたが、その反対の立場に立たれたのです。サタンがイエス様御自身の前に従順に従い、奉仕し犠牲になるようにするために、すなわちこのようなサタンのすべての勢力を屈服させるために、イエス様は、無限の犠牲と奉仕の供え物を捧げる路程を歩まれたのです。これを知らなければなりません。
 サタン世界は、人に対してもあるいは被造物に対しても、無限に利用して搾取しようとするのですが、イエス様はその反対の立場を取りました。このようにサタンができない生活をイエス様は代表的にしたのです。すなわち、温柔、謙遜であり、従順に従い、服従し、犠牲と奉仕の生活をされたのです。ですからサタンも、そのような面では屈服しなければなりませんでした。
 我々は自分を、イエス様が教えられた温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、彼の教えを自分の生活圏内で実践できないと思うならば、いまだにサタンの一族であることを悟らなければなりません。
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