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寮管理人の呟き

広島県福山市草戸町2丁目4・草戸千軒町刀鍛冶旧跡と髭題目碑

旧鷹取川右岸堤防の近く、笠原商店と皿谷クリーニングとの間の空き地に建つ髭題目碑。同様の石塔は市内に多数存在するが、JR福山駅から比較的近い場所にある。

供養塔2

供養塔3

建立時期は昭和2年(1927)5月とわりに新しいもので西の役人村で仕置された罪人の供養塔ではなかった。佐野恒男さんの著作『新編「福山いしぶみ散歩」(1996年9月)』に題目碑が建立された経緯等が詳しい記述があるので町歩きの前に一読をおすすめしたい。

…草戸町二丁目四‐二五という三差路の角に、一、五mの石造基壇の上に高さ四、二mの「南無妙法蓮華経」の御題目碑がある。…大通りに面していないから、人目に触れることが少ない。

 次に建碑の一因となった日親上人霊跡という点を考えてみよう。
 久遠成院日親は、応永一四年(一四〇七)‐長享二年(一四八八)室町時代の日蓮宗の僧。上総の生まれ、法華修行、九州総導師職となり、諸国伝導には純正法華信仰を迫る。永享一一年(一四三九)『立正治国論』を著して、将軍足利義政を諫言したため、灼熱の鍋をかぶせられたり、舌端を切られる拷問をうけ、世に「なべかむり上人」と呼ぶようになった。
 日親は、東西に奔走すること九度、南北の往還六度、他宗との宗論六十有余に及ぶといい、全国を歩いて布教活動をし、三十有余の寺院を建てたと伝えられ、宗門弘道史上に顕著な功績を残している。
 備後の地には、九州往還の途次その足跡をとどめ、沼隈、松永、本郷、神石を経て山陰に至った形跡がある。よって日親は草戸あたりで説教をしたものと推量される。…刀匠の一乗が日親の徳を慕い、日親が摂津に建立した一乗寺の寺号を承け「一乗」と名乗ったことも首肯できる。
 草戸村字小松原を、久遠成院日親の聖跡として日蓮宗信者がこの地を大切にしていた。御題目碑を建てて、芦田川堤防決壊遭難者を供養したことは、日親の徳化と考えられる。

・「備後刀工一覧表」によれば、「法華一乗」を名乗る刀工は、草戸にも住居していた記録が見える。これは右の碑文通り「日親上人」に教化され、先達を襲名したと思われる。

石碑

地図

最近、石造物の傍ら(ポストの前)に「草戸千軒町刀鍛冶旧跡」の説明板が設置され道往く人が足を止めるようになった。鞆鉄道のルートが河川改修工事前と後では異なっていることが地図を見るとよく分かる(贅沢を言えば真ん中に2つの地図を配置して比較できるようにして欲しかったが)。現草戸大橋より上流に架かっているのが(今は無き)銭取橋である。

地図2

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