種まく人から人々へと・命の器(いのちのうつわ)

身近な地域から世界へと貢献する活動や情報など

80日間世界一周!! 二人のエリザベスの行方は?エリザベス・ビスランド&ネリー・ブライ

2016-11-14 18:11:59 | 市民国際交流協会


1889年11月14日、ビスランドのもとに、「すぐに出社されたし」と会社から伝言が来る、出社すると、『コスモポリタン・マガジン』編集長が「今すぐ、世界一周の旅に出よ」と要請する。それは、他社の女流記者「ネリー・ブライ」への挑戦だった。当時、ブライ25歳、ビスランド28歳である。どちらが早く世界一周できるか、競争となったのだ。

もともとは、ジュール・ベルヌが『八十日間世界一周』を1873年に書き、大ヒットとなり、日本でも1878年には翻訳されている。1869年には、エジプトのスエズ運河が開通しているので「世界一周」がかなり楽になっていた。
「80日で世界一周できるはずだ」ということで、主人公フィリアス・フォッグ(イギリス人)はロンドンを出発する、ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』である。それは、ロンドンからスエズ運河を通過し、インドへ。インドからシンガポール、香港、日本(横浜)、アメリカ、と渡って、世界一周を達成し、ちょうど80日であった。もちろんフィクション(作り話)である。

1889年の当時、何日で世界一周が可能なのか?
これは「ネリー・ブライ」の考えた企画だった。

19世紀後半にニューヨークで活躍した二人の女流記者

一人はエリザベス・ビスランド、もう一人は。ネリー・ブライはペンネーム(19世紀アメリカの作曲家フォスターの曲のタイトルからとった)で、本名は
エリザベス・ジェーン・コクラン(Elizabeth Jane Cochran, 1864年5月5日 - 1922年1月27日)である。

ビスランドは、南部ルイジアナ州に生まれる。10代から詩を書いて、ジャズで有名な「ニューオリンズ」の新聞社に送り、その詩がクリスマスの日に掲載された。
ビスランドが18歳の時、ニューオリンズの別の新聞『アイテム』誌に載ったある小説『死者の愛』(作者はラフカディオ・ハーンであった)を読み、なぜかそれを書いた作者に会いたくなり彼女は持ち前の行動力を発揮して、ミシシッピーの田舎町からニューオリンズまで出て行き、バーンを訪問し、二人は友人関係となる。さらに、ビスランドはその後、ハーンも同じ新聞社で働くことなり、なんと二人は同僚になる。


ネリー・ブライは新聞社「ニューヨーク・ザ・ワールド」に1つが採用された。なんと『ブラックウェルズ島の精神病院潜入(暴露)レポート』であった。

悪名高き精神病院に患者のふりをして、10日潜入するという企画が大成功し、ニューヨークで有名な女性記者となった。さらに、「世界一周早まわり競争」、これに成功すればだれもが知っているスター記者になれる。
ブライのほうは自分で企画したのだから、十分準備をして出発した。一方、ビスランドには、突然知らされた。こうしてネリー・ブライは11月14日、すでにニューヨークを発っていた。

ビスランドも、ニューヨークを同日のうちには汽車に乗り、サンフランシスコに向かった。サンフランシスコから、汽船ホワイト・スター号に乗り、太平洋を渡り、日本へ向かった。 

ブライは東回りのジュール・ベルヌの小説とは逆の、ビスランドは西まわりである。

ビスランドが突然にニューヨークから消え、日本へ行ったニュースを聞いて意外なほど動揺したのが、あのラフカディオ・ハーンである。

しかしニューヨークは湧いた。ネリー・ブライとエリザベス・ビスランド二人のエリザベスの世界一周早まわり競争は、ラジオも映画もまだない時代で、新聞・雑誌の記事は、市民の娯楽でもあった。『ニューヨーク・ザ・ワールド』にブライの記事が、新聞紙面を飾った。ところが、ビスランドの『コスモポリタン』誌は、月刊誌なので不利であった。

エリザベス・ビスランドが、日本・横浜の地を踏んだのは1889年(明治22年)12月8日であり、外国人向けの観光ツアーで、一日だけ横浜と東京を楽しんだビスランドは、翌日、香港行きの汽船に乗った。一方、ネリー・ブライは、120時間も日本に滞在し、「愛・美・詩・清潔の地、日本」とかなりべた褒めした文章を記している。

特に、ラフカディオ・ハーンとエリザベス・ビスランドの関係は、工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯(アメリカ編)』武田ランダムハウスジャパン《ランダムハウス講談社文庫》、2008年に詳しい。

エリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore、1861年2月11日 - 1929年1月6日)は、アメリカのジャーナリスト・編集者で、1889年から1890年にかけて、同じ女性記者のネリー・ブライと争った世界一周レースで世界から注目を集めた。日本においては、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と親交を持ち、八雲の没後に英語による伝記を執筆したことで知られる。

ビスランドはルイジアナ州セントメアリー郡のファイアファックス農場に、1861年2月11日に生まれた。南北戦争中、フォート・ビスランドの戦い(英語版)に先立ち疎開している。家族が農場に戻ってからの生活は困難を極め、彼女が12歳の時に、父が相続した実家のある同じルイジアナ州のナッチェズ(英語版)に転居した[6]。ビスランドは10代でその文筆家としての経歴をニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット(タイムズ=ピカユーンの前身の一つ)に「B・L・R・Dane」の筆名で詩を投稿することから始めた[6。ひとたび執筆活動が家族や新聞の編集者に知られると稿料が支払われ、ほどなく彼女はニューオーリンズに赴いてニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットで働くようになる。この新聞社にはラフカディオ・ハーンが在職しており、ハーンと親交を結んだ。1887年頃、ビスランドはニューヨークに移り『ザ・サン』から現地での最初の仕事を得た[6]。1889年まで、彼女はニューヨーク・ワールド(英語版)を含む多くの出版社で働いた。ビスランドは雑誌『COSMOPOLITAN』の編集者になり、その一方で『アトランティック(英語版)』や『ノースアメリカン・レビュー(英語版)』といった雑誌に投稿していた[11]。

世界一周旅行

ネリー・ブライとの世界一周競争中、客船の甲板上でのエリザベス・ビスランド
1889年11月、ニューヨーク・ワールドは、ジュール・ヴェルヌの小説「八十日間世界一周」の主人公・フィリアス・フォッグ(英語版)による80日間の空想旅行を上回る試みとして、ネリー・ブライ記者を世界一周に派遣すると発表した。この耳目を集める宣伝を受け、創刊から3年しか経っていない雑誌『コスモポリタン』を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカー(英語版)は、ビスランドを急ぎ旅行に派遣することを決める[12]。呼ばれてから6時間後にビスランドはニューヨークから西へと出発した。一方、ブライは蒸気船に乗って1889年11月14日(ビスランドと同じ日?)に東向きに出発した。彼女たちの旅行は熱心に報じられたが、ブライは人気があったニューヨーク・ワールドでセンセーショナルに取り上げられる支援を受けた(ビスランドは同紙ではほとんど無視された)ことで、ビスランドおよび月刊誌に過ぎない上に上品な『コスモポリタン』よりも多くの注目を集めるようになった。

80日間の期限に挑んでいたブライは、12月25日に香港に到着するまで、ライバルの存在を知らなかった。その地でオクシデンタル&オリエンタル汽船会社の社員が、ビスランドが3日先に通ったのでブライは負けるだろうと告げた。

しかし最終的にブライはビスランドに打ち勝った。イングランドでは、雑誌社が船会社に金品を贈って船の出発を遅らせたにもかかわらず、予定していたドイツの高速汽船「エムス」に乗り遅れてサウサンプトンに取り残されたと言われて(おそらくは信じられて)いた。彼女が故意に欺かれたのかどうかは不明である。

ビスランドは速度の遅い「ボスニア」に乗ることを余儀なくされ、1月18日にアイルランドのクイーンズランド(コーヴ)から出発したが、ブライは優位に立っていた。 ブライはその間、特別仕立ての列車に乗ってアメリカ大陸を横断し、1890年1月25日午後3時51分に終着点のニュージャージー州に到着して、72日と6時間11分(雑誌『ワールド』が彼女の到着時間を当てるコンテストを実施したため、正確な時間が測定された)で世界一周旅行を達成した。ビスランドの船は1月30日までにニューヨークに到達しなかったが、結局76日半で旅行を完遂し、フォッグによる架空の記録は上回った。

ビスランドは『コスモポリタン』誌に旅行記を連載し、後に単行本In Seven Stages: A Flying Trip Around The World (1891年)として刊行された。

その後の経歴と後半生

ビスランドの文章は、世界一周レースへの参加という題材から受ける印象よりも、ずっと文学的な範疇のものだった(ブライが旅行を綴った『72日間世界一周(英語版)』での、勢いが先走ったスタイルとは明確な対照をなしていた)。実際、1929年にニューヨーク・タイムズが掲載した死亡記事には旅行すら言及がなく、「世界一周競争」後の彼女は執筆活動をよりまじめな題材に集中させ、1906年、彼女は『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』を刊行して好評を得た。ビスランドの最後の著書は『東洋の三賢者(Three Wise Men of the East)』 (1930年)で、没後に刊行された。

ビスランドは法律家のチャールズ・ホイットマン・ウェットモアと1891年に結婚したが、旧姓で著作の出版を続けた。

ビスランドは1929年1月6日に肺炎のため、バージニア州のシャーロッツビルの近くで亡くなり、ニューヨーク市のウッドローン墓地に葬られた。

著書
In Seven Stages: A Flying Trip Around the World, New York: Harper and Brothers, 1891

The Secret Life: Being the Book of a Heretic (1906)

The Life and Letters of Lafcadio Hearn (1906)

Three Wise Men of the East (1930)

参考文献
Marks, Jason. Around the World in 72 Days: The race between Pulitzer's Nellie Bly and Cosmopolitan's Elizabeth Bisland Gemittarius Press、1993年 (ISBN 978-0963369628)

工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯(アメリカ編)』武田ランダムハウスジャパン《ランダムハウス講談社文庫》、2008年

“Heard in the Smoking Room”. ニューヨーク・タイムズ. (1903年3月22日) によるとエリザベス・ビスランド・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore)はハーバード大学を1875年に卒業したと記されている。他の記録では1877年に法学士の資格を得たとある)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89 参考

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 127年前の5万ドル、現在120万... | トップ | 72日と6時間11分14秒で世界一... »

コメントを投稿

市民国際交流協会」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。