硝子戸の外へ。

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穏やかな死を迎えるには

2016-08-30 18:02:34 | 日記
つい先日、ニュース番組の流れから、クローズアップ現代+を観た。テーマは「穏やかな死を迎えたい。医療と宗教 新たな試み」というものである。

人は死を迎えるにあたり、大きく分けて、身体の不安、精神の不安、社会の不安、死に対する不安という要素があり医療的なアプローチだけでは、不安を取り除くことが出来ないそうである。
そこで、宗教者が宗派を超え、クライエントに対し宗教的なアプローチを図って死に対する不安の少しでも緩和しようという試みが始まっていて、彼らの名を「臨床宗教師」という。

その臨床宗教師は、宗教者が、自身が崇拝している対象をクライエントに押し付けることなく、慈悲と利他の精神で、クライエントの心を受容し、穏やかな死に導くという、一見簡単そうで、大変困難を極める働きを行うのが主な働きである。

番組内で、取材を受けていた無宗教の人が、臨床宗教師の導きにより、死を迎える直前になって、はじめて普遍なる存在に気づくという事象はとても印象的で、臨床宗教師の必要性は、核家族化、独居老人が増える中で、高まってゆくのではないかと感じつつも、そのような体験を聞いていると、意識出来ないけれども死後の世界は存在しているのだなと感じる。

しかし、生きとし生けるものすべてに死後の世界が意識出来る能力が備わっていたら、悪い事等できなくなるはずである。
そう考えると、完全なる創造主は、何故その感性を皆に与えたまわなかったのであろうかと疑問が生じるが、知ることが出来ないものであるから、死後の世界で現世での罪を償わなければならないようになっているのだと考えると、創造主はやはり完全なのだと思えてくるのである。

それはさておき、穏やかな死を迎えるにあたり、心の不安を取り除くことが必要なのは理解できたけれども、人はあまりにも煩悩が多すぎるがゆえに、物事に執着するがゆえに、死と言う苦しみから逃れなれないのかもしれないと思ったのです。

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