硝子戸の外へ。

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介護職の近未来。

2015-09-01 16:32:18 | 日記
介護職員と言う仕事に従事してから早十数年。時の移り変わりの中で、なぜ介護保険導入時より職業的評価が下がり、担い手不足に陥ってしまったのか考えてきましたが、堂々巡りをするばかりで、着地には至りません。しかし、業界自体がある種のループの中に留まり続けているから思考もループしてしまうのではないかと思い、新たな糸口を求め考えているうちに、ある共通点のようなものを発見しました。
しかし、それは個人的視点の発見であるので正しさは保証できませんが、批判にさらされれば個人の力では決して見えない新たな地平に至るきっかけになるかもしれないと思ったので、ここにまとめておこうと思いました。

介護施設では、医学的見地から判断せねばならないこと多いため、判断のできる看護師の資格を有する人に発言力があります。その為か施設によってはあらゆる場面で看護師の考え方に配慮しなければならない事がありますが、その発言が介護職員の成長を促すものであれば問題ないのですが、看護師の発言によりしばしば現場が混乱してしまうことがある為、医学的見地以外の部分では介護職員とフラットな関係が築ければ混乱する事もなくなるのではと思いました。

そこで、まず介護士と看護師の間にはなぜ格差が生じているのかを考えてみたのです。

介護施設では看護師の在籍が必要不可欠である為、運営してゆくには、資格保有者を確保せねばなりません。しかし、看護師の力を必要とする医療現場でも担い手不足の問題抱えているので、待遇面で劣る介護施設で資格保有者を確保するのは一層困難な状況です。
また、介護と言う仕事は医療の延長線上にある為、当初より医師会や看護師会と言う組織にとって益をもたらす構造でなければならなかったと考えると、医療現場的構造をそのまま受け継いだ形になっていると考えるのが妥当であるから、介護士は看護助手以下の立場であると認識されても仕方のない事なのでしょう。

しかし、看護師なら、キャリアアップがあり、技術も磨け、労働に対する報酬がしっかりとした医療現場に身を置き続けたほうが、メリットは多いはずなのに、技術も磨けず報酬構造も異なる介護現場へ身を置く事を選択したのかが疑問が残るのです。

それに対して、介護士は、資格自体がぼんやりとしており、資格のハードルの低さゆえ職種を変えようとすると対価を得る手段がなくなるという状況に陥ってしまう人もいるほど、多岐にわたった諸事情を抱えている人が多いのです。だからといって未熟なままでいいという訳ではなく、曖昧な資格であるのだから、できる事を確立する努力を怠らないことが看護師に肩を並べる道筋ではないかと思うのですが、それでも平等になる事はありません。
医療現場では看護助手や准看護師は正看護師になるという道筋があり、耐えねばならないことに耐えれば看護師になれることができますが、介護職員にはキャリアパスの手段がないので、介護現場で看護師が看護助手や准看護師と接するように接されても介護士にはピンときません。狭量な介護士なら「なぜあの人にこき使われねばならないのか」と感じる人もいるではないでしょうか。ですから、介護現場で従事する看護師はその構造の違いを理解し発言を考えてゆかなければならないことが、役目の一つであると思うのですが、看護師の多くは医療現場的に考えるため発言もそのようになってしまうのだと思うのです。

そして、さらに問題なのは、同じ介護職員が何故か看護師側に回り、気の弱い介護職を振り回す立場へとスライドしているという状況が、現場の緊張を高めています。そのような歪な状況下で耐えている間は、一見ヘーゲルのいうところの「主人と奴隷」と言う立場が現れるようにも思うのですが、そこにはすべての人を拘束するほどの真の権力構造というものは見当たらないので、主人と奴隷と言う関係性は存在しません。しかし、退職しない以上、矛盾を受け入れなければならないという精神的に難しい作業を強いられてしまうのも明白な事実なのです。

これが担い手不足の原因の要因の一つと言えると思いますが、真相究明と改善を図らない政府は担い手不足の解消を外国人労働者によって解消しようとしています。
国民一人当たり八百万円近い借金を抱えている国体なのですから、権利ばかりを主張する自国民に投資するよりも、低賃金の労働力で現状を維持した方が得策であると考え方は間違いないと思うのですが、それは過剰搾取が目的であるともいえます。
サルトルの言葉を借りて少しばかり文言を変えるなら、「外国人労働者に対する過剰搾取は日本の資本主義にとっては必要なものなのだ」と言う狙いも見え隠れします。
しかし、外国人労働者を積極的に受け入れるということは、治安の維持と言う問題に大きく関わってきます。
勿論、経済が上昇し続け、給与が適正に払われているうちは問題ないかもしれませんが、経済が下降した時、ドゥルーズとガタリの言うように「不安定な雇用においやられた大衆が存在し、その生計は公式上国家の社会保障と不安定な給与によってのみ維持される」という状況になれば、自国民の労働者も同じ立場に陥ることになるのではと危惧するのです。しかも、外国人労働者の賃金が安いために、職を奪われる可能性の高い自国民の不満が外国人労働者へとむけられる危険性を孕んでいるようにも思いますが、暴力で拘束力を担保する企業でもない限り、差別が生じる前に違う職種へと移ってゆくことは現時点の現場を見れば明らかであると思います。

つまり、どんな対策を取ろうとも、心理的な障壁が取り除かれない事には介護現場の担い手不足は解消しないであろうという結論に達するのです。

以前にも述べましたが、介護現場は一つの共同体であるのだから、職種間の格差を無くし、看護も介護も自己の権利を抑制し共に支えあい、向上心を持ち、企業として、人材育成にコストをかければ、事業として生き延びてゆけるチャンスも巡ってくるかもしれないと思うのですが、閉ざされた保守的な体質のままでは発展は難しいと考えられます。

そして、なによりも、介護と言う仕事が「対価を払うことで尊厳を維持する。場合によっては他者の価値観によって個人の生活に強制的に介入する」という、矛盾に満ちた事業である為にどんなに言葉を尽くしても説得力に欠けてしまい、そのような方向の定まらない状況では、職業としての魅力を失ってゆくのは必然であったのかもしれません。しかし、それは介護事業が企業として成り立たなくなりつつあるということでもあり、供給が追い付かなくなるという致命的な問題を解決できない理由であるのかもしれません。

それでも、同じ施設に留まっている人の多くは、マイペースを保て、ローカルなコミュニティーが確立していて、施設に寄りかかる事でしか生きることの出来ない利用者との相互依存という関係を介護保険制度が支えることで成り立っていて、株式会社のように突然倒産と言う形にはなりにくいことの安心感が働きやすさにつながっているのではないかと思うのです。

しかし、介護保険制度自体が流動的であり、人間の価値観自体も流動的である為、供給側が硬直していては、地方商店街のように緩やかに衰退してゆく事は避けられません。また、多様性の承認と核家族化という社会現象が女性の社会進出と関係があるのだとしたら、介護現場も女性が主体であるのだから、核家族化と少子化と言う社会の動きが職場でも踏襲されるのは自然なことなのではと思えるのです。しかしながら、現時点では社会福祉の役割を満たしているのだから、問題が山積しているとはいえ介護業界はすでに成熟した形となっていると言えるのかもしれません。