硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「なぜ人を殺してはいけないのか。」

2015-02-12 19:07:38 | 日記
昨晩録画した「相棒」を観終わる。とても面白かったのだけれど今回のテーマである「なぜ人を殺してはいけないのか? 」という問いかけが頭の中でぐるぐる回っている。

杉下右京の恩師の言うように「なぜ人を殺してはいけないのか? 」と、言う問いは、子供じみた愚問であるように思いますが、杉下右京が言うように「明確な理由がない。」とも言えます。
これは、一般的な道徳観から見れば矛盾している問いと答えであるけれど、逆説的に捉えれば、「世の中は矛盾しているものだ。」と言えます。

人を殺してはいけないというルールが法においてのみ適用される論理であるなら、世の中に法がなければ、人を殺してもよいということにもなります。また法を司る国が「人を殺してもよい。」と言えば、殺人は法の下に正当化されることになります。

それは、他国との戦争がその最たるものですが、戦争はどんな形であれ国家が認めた殺人行為と言えるでしょう。

しかし、不思議なもので、文字にしてしまえばこれだけの事であるけれど、攻めるのも守るのも、その現場にはたくさんの血が流れ、平凡な営みが誰かの手によって一瞬にして奪われて、悲しみや憎しみという感情が生まれ人々の心が荒んでゆくと、いずれ人々から倫理観や道徳観が離れてゆき、法は個人の手にゆだねられるようになると思います。

法が個人にゆだねられる。それは極論であるけれど、人が知性を働かせることを止め、欲望の赴くままに生き始めたらどうなるかという問いになります。

自然界では食物連鎖として、弱肉強食は自然の営みであるけれど、倫理観や道徳観という、知性を必要とする行為が必要でなくなれば、人もいずれ弱者が強者に捕食されるようになるのではないでしょうか。
人が人を捕食する。それはカニバリズムという少数派が一般的になるということではありませんが、不平等が横行することになるということは間違いありません。それは暴力が支配するといってもいいかもしれません。

法が機能し平和が維持され、貨幣の運動によってぜいたくな生活ができている間は、知的労働によって大きな対価を得ることができ経済的な格差を生みますが、無法地帯となり、人が命に囚われているならば、知的労働で得られた貨幣は、暴力によって理不尽に搾取されるようになるでしょう。強奪や搾取が当たり前になってしまえば生産活動は弱体してゆき、人が住めなくなれば、暴力はやがて新たな宿主を求めて移動してゆくでしょう。

それは、どこに行っても常に暴力が付きまという事になります。勿論、他者からの暴力を自身の力で回避する力も備えられればよいのだけれど、皆がそこまで万能ではありません。武器を持てば逆転できると思う人もいるかもしれませんが、こういった状況では手練れも武器を保持しており、且つ、使い慣れ、殺人に対するスキルも高いと思います。ですから、どんな武器を保持していようと戦闘の場でも格差が生じているので、弱者である者の命は常に奪われる状況は変わりません。それが、どれほど絶望的な人生であるかを理解すれば、自ずと人を殺してはいけないという法が辛うじて機能している事の有難さを実感できるのではないかと思うのです。

また、なぜ人を殺してはいけないという問いかけがなされている間は本当に平和だと思うのです。大勢の人が理不尽な暴力によって命を奪われる危険がない日常では「なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いかけよりも、大勢の人が「何としても生き延びねばならぬ。」という希望を持つからです。何としても生き延びようとする気持ちは何百里であろうと人を争いのない世界へと歩ませます。
大陸ならば多少の危険も顧みず幾国の国境を越えてゆくのです。こんな時、人々は「なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いよりも「なぜ人は殺しあうのか。」と、問うのではないでしょうか。

したがって、「なぜ人を殺してはいけないのか」と、問う人は、頭でっかちになりすぎて、平和な世の中に甘えている人だと言えるかもしれません。
勿論、自らの力で生きようとしても、上手くゆかず生きることに絶望している人もいるでしょう。神などいるものかと悲観されている人もいるでしょう。しかし、世の中はいつの時代もある人にとっては楽園であり、ある人にとっては矛盾に満ち満ちていて苦汁を飲みつづける日々でもあるので、生きる希望を失い自死の欲望に駆られることもあるでしょう。

自殺も人を殺すということになりますが、自殺においては最終的に自身が法になるように思います。国や居住区を離れ個に戻る時、決定権は個人にゆだねられます。
しかし、個人という法が、自死を認めてしまうまでは、国が定める法がそこそこに守ってくれているのだと思います。

様々な表現を用いて問いに対する回答を試みたけれども、総括すると、様々な個性を持つ人々が、穏やかな日々を生きてゆくためには法は不可欠であり、その中で、「なぜ人を殺してはいけないのか。」と問う人も、法によってその発言と命が守られている事を自らの身体で証明していると言えるでしょう。

これでも、言葉が足りないとするなら、それは、「なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いかけをしている人の「欲望」に沿った答えになっていないだけだからと思うのです。しかし、個人の欲望に沿う回答であるなら、普遍性に欠けており、答えにはならないのだと思うのです。