教育委員会社会教育課で私が主に担当することになったのは、同和問題に関する市民啓発の業務であった。この社会同和教育担当には、私のほかに数年前に指導主事として採用されていた中村さんがおられた。したがって中村さんが国からの補助金による「集会所事業」を担当、私が市民啓発の企画と実施、尼崎市同和教育協議会の育成を分担することになった。
昭和40年に国の同和対策協議会から「答申」がだされ、これによって各自治体が「同和対策事業」と「市民啓発」に取り組むことになり、それぞれが暗中模索のなかで仕事をすることになった。
私と同和問題(問題)との出会いは小学校時代に遡る。私は明智光秀が殺された京都の小栗栖というところで生まれた。私の生まれた所の近くにかなり大きな地区があり、知り合いもたくさんいた。
小学校5年生か6年生の頃だったと思うが、当時の飯田校長先生が涙を流しながらこの地域の話をされた。その話のされかたが普段と違うことから「なにか」を感じた。その後少しずつその地がほかのところとちがう評価を受けていることを知ったのである。
問題について系統的に学習したのは大学の「問題概論」をとおしてであった。さらにその深刻さを知ったのは、小学校から高等学校まで一緒に学んだある友人が結婚問題で大変悩んだことからであった。私は不合理な差別はあってはならないと強く心に留めた。
私が関係の仕事を14年間続けたのだが、この友人に会う度に差別を受ける立場からいろいろなことを教えられた。その結果、出身者や解放運動に関わる人を「裸の王様」にしてはいけない。そのためには出身者や解放運動からの要求は「是々非々」で対応することを心に誓った。
このため、運動団体との間で対立や紛糾を生じることもあったが、うしろで支えてくださったのは当時の社会教育部長として、教育長としての福島さんであった。
昭和40年に国の同和対策協議会から「答申」がだされ、これによって各自治体が「同和対策事業」と「市民啓発」に取り組むことになり、それぞれが暗中模索のなかで仕事をすることになった。
私と同和問題(問題)との出会いは小学校時代に遡る。私は明智光秀が殺された京都の小栗栖というところで生まれた。私の生まれた所の近くにかなり大きな地区があり、知り合いもたくさんいた。
小学校5年生か6年生の頃だったと思うが、当時の飯田校長先生が涙を流しながらこの地域の話をされた。その話のされかたが普段と違うことから「なにか」を感じた。その後少しずつその地がほかのところとちがう評価を受けていることを知ったのである。
問題について系統的に学習したのは大学の「問題概論」をとおしてであった。さらにその深刻さを知ったのは、小学校から高等学校まで一緒に学んだある友人が結婚問題で大変悩んだことからであった。私は不合理な差別はあってはならないと強く心に留めた。
私が関係の仕事を14年間続けたのだが、この友人に会う度に差別を受ける立場からいろいろなことを教えられた。その結果、出身者や解放運動に関わる人を「裸の王様」にしてはいけない。そのためには出身者や解放運動からの要求は「是々非々」で対応することを心に誓った。
このため、運動団体との間で対立や紛糾を生じることもあったが、うしろで支えてくださったのは当時の社会教育部長として、教育長としての福島さんであった。