晴耕雨読

本年三月に退職、現在は京都で通勤農業に励んでいます

社会同和教育担当者として

2007-02-19 11:18:49 | Weblog
教育委員会社会教育課で私が主に担当することになったのは、同和問題に関する市民啓発の業務であった。この社会同和教育担当には、私のほかに数年前に指導主事として採用されていた中村さんがおられた。したがって中村さんが国からの補助金による「集会所事業」を担当、私が市民啓発の企画と実施、尼崎市同和教育協議会の育成を分担することになった。
昭和40年に国の同和対策協議会から「答申」がだされ、これによって各自治体が「同和対策事業」と「市民啓発」に取り組むことになり、それぞれが暗中模索のなかで仕事をすることになった。
私と同和問題(問題)との出会いは小学校時代に遡る。私は明智光秀が殺された京都の小栗栖というところで生まれた。私の生まれた所の近くにかなり大きな地区があり、知り合いもたくさんいた。
小学校5年生か6年生の頃だったと思うが、当時の飯田校長先生が涙を流しながらこの地域の話をされた。その話のされかたが普段と違うことから「なにか」を感じた。その後少しずつその地がほかのところとちがう評価を受けていることを知ったのである。
問題について系統的に学習したのは大学の「問題概論」をとおしてであった。さらにその深刻さを知ったのは、小学校から高等学校まで一緒に学んだある友人が結婚問題で大変悩んだことからであった。私は不合理な差別はあってはならないと強く心に留めた。
私が関係の仕事を14年間続けたのだが、この友人に会う度に差別を受ける立場からいろいろなことを教えられた。その結果、出身者や解放運動に関わる人を「裸の王様」にしてはいけない。そのためには出身者や解放運動からの要求は「是々非々」で対応することを心に誓った。
このため、運動団体との間で対立や紛糾を生じることもあったが、うしろで支えてくださったのは当時の社会教育部長として、教育長としての福島さんであった。



カルチャーショックを受ける

2007-02-09 11:27:32 | Weblog
4月1日に足立教育長より「尼崎市教育委員会事務局職員に採用、社会教育部社会教育課主査(指導主事)を命ず」との辞令を受け、教育委員会職員としての生活が始まった。学校と事務局との文化の違いに大きなショックを受けた。
学校ではほとんど自分で考えたことは自分の判断と責任で実践することが許されていた。しかし、役所では全てのことは上司の「決裁」を得なければならない。このことは驚きであった。また、職員が口にする言葉に馴染むのも大変だった。例えば「キチョウ」という言葉を庶務担当の係長がよく口にする。私の頭には「貴重」「記帳」ぐらいしか浮かばない。後になってやっと「企画調整局」の略であることが分かった。このほかにも「ケンセツサイ」「クリコシメイキョ」など等。
当時市役所で係長に昇格するのは35歳前後であり、40歳を越えてもまだ係長に昇格していない職員が大勢いた。これに反し私は採用された日から係長相当職だから先輩たちは面白くないこともあったであろう。したがって「こんなことも知らないの」という態度をとられることもあった。
古い人には絶対負けられないと役所の仕組みや事務処理の仕方の勉強をした。この時役に立ったのが「事務処理規定」という名のついた冊子であった。この冊子の中には決裁文の形式、用語、回議の仕方などがこと細かく書かれていた。
この冊子を繰り返し読み、分からないことはこの冊子にあたり確認するように努めた。おかげで半年程たつと大抵のことがわかるようになった。
学校であたりまえのことが役所であたりまえでないことも多々あった。例えば私は婦人教育(今は女性教育)を担当していたので、尼崎市連合婦人会とのかかわりがあった。この会が研修旅行に行くので付き添いを依頼された。課長に相談すると「行く必要があるかどうか自分で判断し、いく必要があれば決裁文を起こせ」ということであった。上司は部下の判断の是非を決めるというのである。
また私がかかわりをもつ団体に役所が補助金を予算化している。私はできるだけ早く補助金を支出し有効に活用して欲しいとの考えで年度当初に支出を願い出たが、総務部長に「年度末に支出せよ」と否決された。
私は役所の慣行は尊重するが慣行に捉われないようにしょうし決意した。