kokenkokensenさんから、昭和天皇の靖国に関する不快の念に不快だと書いたブログのコメントで紹介された阿川弘之著の「井上成美」を読んだ。夏休みに徳山に帰省した際に訪れた回天記念館で読んでみるかと思い立った。
新書版程度のものかと思っていたら、新潮社から出版されているハードカバーの分厚い書物で、その分量も重さも、立ち読みで読了するのは気が遠くなりそう。消費税を入れると3000円を超える出費も痛いので大田原図書館で借りて読むことにした。かみさんに頼んで借りてきてもらったので、休みの都合もあって借りた日が終戦記念日の8月15日。
あまりの厚さに手を出しかねていたが、読み始めると面白い。娘に3日くらいで読み終えそう、なんていわれたが、新幹線の行き帰りと寝る前に読んで、昨日が3日目。
コメントでご指摘いただいたのは以下のようなところ。
天子様は初めから不賛成ですよ。満州事変以来、やっちゃいかん、国民が難儀する、やるな抑えろと、機会ある度、その衝の物に言い続けられて来られた。それを、なしくづしに、なだめすかして三国同盟の御裁可まで持ち込み、挙句の果てが、当然の帰結の対米戦争を戦って徹底的敗北を喫してしまった。世間普通の人間なら、腸の煮え返る思ひでせうよ。御信任にお応えすべき立場の者が、みなで寄ってたかって、天子様だましていくさを始めたようなもんなんだ。それで最後は、再び無責任も甚だしく、自分ら自殺して、後始末だけ天子様に押しつけたんですからね。」著者の阿川氏が昭和39年に会ったときの話
また、こんな話もある。「陛下より燃料の現状についてご下問があったので、奉答に必要な資料を提出してもらいたい」との命に対する部下の答えが、「本当のことを書きますか」井上が大臣次官となった昭和19年8月のことである。それまでの海軍大臣は、油は充分にあるようにメイキングさせた資料を差し出していた。
そもそも三国同盟も、その必然の結果とも言える日米開戦もともに断固反対の立場をとっていた井上に言わせれば、それを許した海軍首脳は国賊ということになる。東京裁判が無くとも、日本人自らが極刑に処するべしと思っていたかもしれない。
この本はというか、井上成美という人物そのものが面白くて、読んでいて飽きることがなかった。形式主義に囚われず、思ったことはずばずば言う。もちろんのことだが上の受けは悪いし、下のものにとっても怖い存在でしかなかった者が多かったようだ。そんな井上氏は自分自身を教育者が天職だったかもしれないと言っているのだが、海軍兵学校校長時代の逸話は秀逸である。以下はその逸話を含めて備忘録がわりに面白かった箇所を記す。
敵国語として英語排斥が進んでいる中、英語教育の必要性を最後まで主張している。「何処の国と戦争していると思っておるのか。英語が苦手、英語の書物は読みませんで、アメリカ、イギリス相手のいくさが出来るか。思い上がったことを言う勿れ。」これは聨合艦隊司令長官当時の山本五十六の言葉。井上の方は、この戦争に勝てばアメリカを支配することになり英語が必要だし、負ければもっと必要になる、と屁理屈みたいなことを言っているが、求めたことは同じだろう。教育者として目指したところは、「・・兵隊作りではない、生徒をまづジェントルマンに育て上げようとしたのだ・・・だから基礎教養に不可欠な普通学の時間を削減してはいかん。・・英語の廃止など絶対認めない。大木に成長すべき人材のポテンシャルを持たしむに在って・・」 井上によれば敗戦後の日本を考えた上でのことだそうである。
委員会に関する意見、「ある面から見れば、委員会とは要するに責任を回避するための組織ですよ。今の内閣が、何か難しい問題にぶつかるとすぐ調査会とか審議会とか作るのを新聞で読んで、ああ、同じきおとをやっているなと思います。あれを作ると、責任の所在は分散して、誰がほんたうの責任を取るのかはっきりしなくなる。・・」と昭和45年に述べている。
以下は井上氏とは直接関係のない駐米大使館付武官としてワシントン在勤した横山少将作の労作として紹介されている英語のヘル談。
ロサンゼルス発シカゴ行大陸横断急行が、アリゾナの砂漠にさしかかったとき、前方線路上に人の寝ているのを機関紙が発見した。汽笛を鳴らしてもどかない。急ブレーキをかkて、危うく轢き殺さずに停まって、見れば二人のインディアンである。「なぜどかないんだ」、機関士は怒鳴りつけた。男のインディアンが起き上がって、弁解して言うには、「She was coming, I was coming, you were also coming, but you were the only guy who had a brake.」
その井上大将は東京多磨霊園に眠っているそうである。4年近くを過ごした三鷹の独身寮は野川公園を挟んで向かい側に位置していた。
最後に昭和天皇に関する私自身の不快感だが、その気持ちに大きな変化は無かったというのが正直なところである。全く同じとはいえないけれど、最近の事件で言えば、ライブドアの堀江氏が法に触れた行為がなされていたという事実を知らされていなかったから、自らの責任は無いと言っているのと大同小異と思われて仕方ない。井上成美氏の回想にもあるように、当時の天皇の意見は絶対であったのは確かであり、なし崩し的になだめすかして認めさせられたとは言え、やはり、その責任を免れるとは思えないというのが感想である。
新書版程度のものかと思っていたら、新潮社から出版されているハードカバーの分厚い書物で、その分量も重さも、立ち読みで読了するのは気が遠くなりそう。消費税を入れると3000円を超える出費も痛いので大田原図書館で借りて読むことにした。かみさんに頼んで借りてきてもらったので、休みの都合もあって借りた日が終戦記念日の8月15日。
あまりの厚さに手を出しかねていたが、読み始めると面白い。娘に3日くらいで読み終えそう、なんていわれたが、新幹線の行き帰りと寝る前に読んで、昨日が3日目。
コメントでご指摘いただいたのは以下のようなところ。
天子様は初めから不賛成ですよ。満州事変以来、やっちゃいかん、国民が難儀する、やるな抑えろと、機会ある度、その衝の物に言い続けられて来られた。それを、なしくづしに、なだめすかして三国同盟の御裁可まで持ち込み、挙句の果てが、当然の帰結の対米戦争を戦って徹底的敗北を喫してしまった。世間普通の人間なら、腸の煮え返る思ひでせうよ。御信任にお応えすべき立場の者が、みなで寄ってたかって、天子様だましていくさを始めたようなもんなんだ。それで最後は、再び無責任も甚だしく、自分ら自殺して、後始末だけ天子様に押しつけたんですからね。」著者の阿川氏が昭和39年に会ったときの話
また、こんな話もある。「陛下より燃料の現状についてご下問があったので、奉答に必要な資料を提出してもらいたい」との命に対する部下の答えが、「本当のことを書きますか」井上が大臣次官となった昭和19年8月のことである。それまでの海軍大臣は、油は充分にあるようにメイキングさせた資料を差し出していた。
そもそも三国同盟も、その必然の結果とも言える日米開戦もともに断固反対の立場をとっていた井上に言わせれば、それを許した海軍首脳は国賊ということになる。東京裁判が無くとも、日本人自らが極刑に処するべしと思っていたかもしれない。
この本はというか、井上成美という人物そのものが面白くて、読んでいて飽きることがなかった。形式主義に囚われず、思ったことはずばずば言う。もちろんのことだが上の受けは悪いし、下のものにとっても怖い存在でしかなかった者が多かったようだ。そんな井上氏は自分自身を教育者が天職だったかもしれないと言っているのだが、海軍兵学校校長時代の逸話は秀逸である。以下はその逸話を含めて備忘録がわりに面白かった箇所を記す。
敵国語として英語排斥が進んでいる中、英語教育の必要性を最後まで主張している。「何処の国と戦争していると思っておるのか。英語が苦手、英語の書物は読みませんで、アメリカ、イギリス相手のいくさが出来るか。思い上がったことを言う勿れ。」これは聨合艦隊司令長官当時の山本五十六の言葉。井上の方は、この戦争に勝てばアメリカを支配することになり英語が必要だし、負ければもっと必要になる、と屁理屈みたいなことを言っているが、求めたことは同じだろう。教育者として目指したところは、「・・兵隊作りではない、生徒をまづジェントルマンに育て上げようとしたのだ・・・だから基礎教養に不可欠な普通学の時間を削減してはいかん。・・英語の廃止など絶対認めない。大木に成長すべき人材のポテンシャルを持たしむに在って・・」 井上によれば敗戦後の日本を考えた上でのことだそうである。
委員会に関する意見、「ある面から見れば、委員会とは要するに責任を回避するための組織ですよ。今の内閣が、何か難しい問題にぶつかるとすぐ調査会とか審議会とか作るのを新聞で読んで、ああ、同じきおとをやっているなと思います。あれを作ると、責任の所在は分散して、誰がほんたうの責任を取るのかはっきりしなくなる。・・」と昭和45年に述べている。
以下は井上氏とは直接関係のない駐米大使館付武官としてワシントン在勤した横山少将作の労作として紹介されている英語のヘル談。
ロサンゼルス発シカゴ行大陸横断急行が、アリゾナの砂漠にさしかかったとき、前方線路上に人の寝ているのを機関紙が発見した。汽笛を鳴らしてもどかない。急ブレーキをかkて、危うく轢き殺さずに停まって、見れば二人のインディアンである。「なぜどかないんだ」、機関士は怒鳴りつけた。男のインディアンが起き上がって、弁解して言うには、「She was coming, I was coming, you were also coming, but you were the only guy who had a brake.」
その井上大将は東京多磨霊園に眠っているそうである。4年近くを過ごした三鷹の独身寮は野川公園を挟んで向かい側に位置していた。
最後に昭和天皇に関する私自身の不快感だが、その気持ちに大きな変化は無かったというのが正直なところである。全く同じとはいえないけれど、最近の事件で言えば、ライブドアの堀江氏が法に触れた行為がなされていたという事実を知らされていなかったから、自らの責任は無いと言っているのと大同小異と思われて仕方ない。井上成美氏の回想にもあるように、当時の天皇の意見は絶対であったのは確かであり、なし崩し的になだめすかして認めさせられたとは言え、やはり、その責任を免れるとは思えないというのが感想である。
- Unknown
- (kokenkokensen)
- 2006-08-25 04:00:20
コメントする・もっと見る井上成美はもう一度読みたくなる本ですね。委員会については全く、現在も同じ状況です。官僚の意に添う委員を連れてきて、自分たちの意見通りの案を作り上げときながら、責任だけは回避する。官僚の意見に逆らって、次の委員会に委員として任命されなかった人も知っています。そう言えば、井上成美も仕事は5時までと言ってましたね。