遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉  157 中禅寺湖 湖畔 桂の木

2017-09-24 11:21:18 | 日記

          中善寺湖 湖畔 桂の木(2011.q1.31日作)

現在ある桂の木は二代目だという事で、当時、その木は植えられて間もない時期であった           

              に違いない

  

   日光 中禅寺湖の湖畔に

   一本の桂の木がある

  「これが映画 愛染かつら 題名由来の桂の木です」

   昭和二十八年 1953年5月 

   中学校卒業の修学旅行で訪れた時

   校長先生が教えてくれた桂の木

   その木はひ弱で 一見 頼りなく

   片手の掌(たなごころ)に収まってしまう程に細かった

   今年 平成二十二年 2010年10月 兄妹旅行で

   ふたたび訪れた 中禅寺湖 湖畔

   桂の木は今も健在で 大きく幹を太らせ

   見上げる程に高く枝葉を繁らせていた

   ---わたしの胸の中にあふれる感慨

   たちまち流れ出す時間

   還り来ぬ日が意識の表面を駆け巡る

   制服に身を固めた中学生の男女

   総勢六十数名 引率の先生 数名

   戦後 まだ この国が貧しかった時代

   訪れる人の姿もまばらな湖は

   緑の山々に抱かれ 静かなたたずまいのうちに

   広大な水面(みなも)を見せて 遠く彼方にまで広がっていた

   今年 平成二十二年 2010年10月 

   湖は大きく枝葉を広げた桂の木の向こうに

   あの日のままに 山裾に抱かれ

   静かなたたずまいを見せている

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   変わりゆくもの 変わらぬもの

   平成二十二年 2010年10月

   わたしは年老いた

   あの中学生時代の面影は はるかに遠く

   引率の先生方 

   校長先生はじめ 多くが亡くなった

   二年に一度 故郷の町で行われる同窓会では

   顔を合わせる かつての級友たちが口にする

   年老いたゆえの身体不調 

   思いも掛けない訃報 消息不明

  「何度 通知を出しても返事が来ないのよ」

   遠い日 中学生時代

   ダンゴムシのように一つにまとまり 和気あいあいだった

   昭和二十九年 1954年 三月 白浜中学校卒業生

   次第にその出席者の数を減らして来る同窓会が

   一抹の寂しさを その回ごとに募らせる

   昭和二十八年 1953年 5月

   緑の山々に抱かれ 静かなたたずまいを見せる

   中禅寺湖を背に総勢が

   一つのダンゴムシになって写したあの記念写真

   その中に満ちていた濃密さ あの濃密さは もはや

   二年に一度 故郷の町で行われる同窓会の席に

   求める事は出来ない

   級友達がいた存在空間の

   次第に増して来る希薄化

   それだけが心の底に寂しさを運んで来る

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   変わりゆくもの 変わらぬもの

   過ぎ逝く時の中で 大きく枝葉を伸ばし

   今も山裾に抱かれ 静かなたたずまいを見せている

   中禅寺湖の湖畔に立つ

   一本の桂の木

   時は移り 人の変わりゆく中で その木は

   何を見つめ 何に出会って

   やがて わたしもこの世を去るであろう そのあとの

   自身の時を生きてゆくのだろう

   

   

   

   

   

   

   

   

 

                                            


遺す言葉  156 人と神

2017-09-17 12:08:35 | 日記

          人と神(2017.5.10日作)

 

   人が神のために 人を殺す事が出来るとすれば それは 悪徳の神だ

 

   神より人間が大事 

   敬虔な宗教指導者が 簡単に人を殺す(戦争)のは どういう事か?

 

   天に在(ま)します我らの神ではなく 我が心より生まれ出(い)づる神である

 

   この世のものすべては 神に成り得る 唯一絶対神などあり得ない 

   火水地風空識すべて 神が宿り得る 

   神とは人間が心の内に求める 規律だ

 

   似非(えせ)宗教家は しばしば人間の存在を見失う

   人間あっての神であり 神があっての人間ではない

 

   世間一般的な神は その存在を見せないから

   人間を統御し 支配出来るのだ

 

   宗教が尊いのではなく 宗教に帰依(きえ)し

   より向上しようとする 人間の心が尊いのだ

   宗教は薬であり毒だ

 

   神社仏閣仏像が信仰の対象として尊ばれるのは

   神社仏閣仏像が尊いのではなくー美術芸術的価値は別としてー

   そこに込められた人々の願いや祈り 

   そこに寄せる人々の心根が尊いのだ

 

   人間存在は 人知を超えたところにある 

   人がそれに対抗するには 自分自身を精一杯生きるより外に

   出来る事はない

   今日を精一杯生きる 人間個々人が持つ運命の下では

   それが 人に出来る唯一の事だ

 

   人間の根本を成すものは精神性(心)である

   それが人間と動物とを隔てる

 

   人間の心はともすれば 

   生贄(いけにえ)を作り 

   それを傷め付ける事に快感を覚えがちだ

 

   もし われわれが縋る事の出来る 全能の神が存在するなら

   殺人は許されるだろう なぜなら

   神はわれわれの悲しみを癒してくれるだろうし

   理不尽に死んでいった人々を 復活させてくれるだろうから

   しかし そんな神は何処にもいない ゆえに

   人間は人の悲しみをつくってはならない

   人の悲しみは人が癒す事しか出来ないのだから

 

 

   

   

 

   

 

   

   

 

   

 

   

 

   

 

                                     


遺す言葉  155 人という存在

2017-09-10 12:12:45 | 日記

          人という存在(2017.7.15日作)

 

   人間はどんなにもがき 足掻いてみても あるいは

   どんなに高邁な精神の持ち主であっても 結局は

   自分自身の殻から 抜け出る事は出来ない

   他人のため 貧しい人 困窮している人を助けるため

   そう思ってしている行為も 結局は 自分自身の心

   あるいは、虚栄心を満たすための行為であり 純粋無垢

   自分を無にした行為では あり得ない そういう行為 行動

   をしなければ 自分自身の心が満たされない 救われない

   自分が苦しくなるーー そのために 他者救済への行動に走る

   無論 その人は高潔 人間として尊重し得る心の持ち主であり

   実際 尊敬されるべき存在である事に 異論を差し挟む余地などなく

   その人を貶める事など 誰にも出来ない 人として

   最上 最高 最良 称賛されるべき存在であり その心は

   人の心の有り様として最高位のものだ その心を卑しく思い

   否定する事など 誰にも出来ない もし 否定する人間

   そういう人間がいるとすれば その人間は 人間として

   最低位の存在 --しかし それでもなお

   人間は自分自身を離れ 空 無 になる事は出来ない

   自分自身を 捨て去る事は出来ない 

   自分自身を捨て去れば 今 実行している最高 最良の行為そのものも

   結局 捨て去らなければ ならなくなるだろう

   自分を捨て去る事 心を捨て去る事

   心のない人間など

   存在し得ない

   

   

   

   

    

   


遺す言葉  154 夏の日の恋

2017-09-03 11:46:57 | 日記

          夏の日の恋(2017.8.30日作) 

 

   草原に 風は立ち

   愛の日は 流れていった

   思い出のバンガロー

   その庭に残された

   サルビアの赤い花

   さびしく揺れて

   晩夏を告げる

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   幸せに 酔いしれた

   夏の日の 短い恋よ

   草原は輝いて

   青空の白い雲

   どこまでも追い掛けた

   あの日のふたり

   夢と消えてく

   -----

   草原に 風は立ち

   さびしさが すすきに揺れる

   思い出のバンガロー

   その部屋にただひとり

   過ぎた日の幸せを

   涙の中に

   浮かべているの