目覚め

2010年12月20日(月)

大悟りと解脱の悟り

2016年10月16日 | 覚醒
>大悟とは、真我(空)に完全に覚醒する悟りのことで、解脱の悟りとは、
無明を理解することであり、一切の考えを掴まなくなることです。


この概念の様に、覚醒にも様々な過程があって、私のように大悟り、解脱の悟りと、段階を経て体験する者もあれば、
私の娘や、片割れ君の様に、その過程が無く、一気に肉体を脱いでしまう寸前まで意識が上昇する人も居ます。


私の場合、階段を上るように、5年かけて徐々にシフトしましたが、最後まで残ったのが片割れに対する執着でした。
それが流れ落ちてしまった今振り返ってみると、一つでも執着があるのと無いのとでは大きな違いがありました。


たった一つと言いましても、それが人間関係(わたし対あなた)の認識がある視点と無い視点ですから、
無くなった時点で、別世界に行ってしまったかの様な、感じがしていた記憶があります。
こうして言葉を用いて、記述している時点では分離していますし、私という個が存在します。
しかし、解脱を垣間見ている状態の時は、私は居ませんし、外の世界さえも認識できません。


瞑想状態の時に、空を彷徨い、私を認識できないと言うものとは明らかに違います。
瞑想している訳でもないのに、私が居ないまま(おばけの様に?)それまでにしていた事柄をこなしていましたが、
言葉を発するのは、誰かのエネルギーを借りないと、話す事ができませんでした。
誰かのエネルギーを借りるとは、その人の自我を借りて、そのフィルターを通して会話をする感じだったと思います。
そんな状態が、3か月くらい続いていた様な気がします。



その状態から抜け出せたのは、過去のデーター(メールなど)見て、その時の記憶を呼び戻すかのように
再び自我を付け直し、新たな自我のフィルターを通すことで、外の世界を映し出す事ができるようになった記憶があります。


再度自我を付け直したのは、楽しいと感じる私が消えたことで、
淡々と肉体を維持するための行動を起こしているだけで、
何故ここに居るのか解らなくなったからです。



今の私は、ただ観ている、ただここに在る状態と、分離の世界を行ったり来たりしていますが、
そうなる以前の、分離が主流だった頃の私は、
善悪(光と闇)のジャッジにより意味づけをし、
それを楽しんで過ごしていたのだと言う事も解りました。



意味づけしながら生きる事が、この世界の楽しみ方なので、
悟っていようと居まいと、どちらでも良いのですが、
時に善悪のジャッジがきつ過ぎて、生きることを楽しいと思えなくなってしまったら、
生きやすいと感じるくらいまでは、観念を概念を昇華する事が良いのではないかと思います。




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