多摩川新聞ブログ

川崎の地域情報を提供する「多摩川新聞」の連動ブログです。

この人に聞く 商工会議所 会頭 山田長満さん

2011-01-08 12:02:45 | インタビュー
人口142万人を抱える大都市の商工会議所の会頭に就任。
「やはり川崎の元気のために全力で取り組んでいこうという心境ですね」
キャッチフレーズは「未来を拓く夢のある会議所に、魅力溢れる会議所に」。
「温故知新産業」に取り組みたいという。すなわち、昔の良い商品を残して、新しい商品を少し増やして新鮮味を加えるということ。
「過去の良いところは残して、それに新しいものを少し加えましょうと。過去の良いものを残して新しさを加えるということ。コラボレーションの融合なんです」
「iPhoneにしても明治時代の電話、カメラを組み合わせたり、メモと組み合わせたり、最近のコンピューターと組み合わせて出来ているので、これなんか『温故知新産業』。近代的なiPhoneにしても、携帯電話にしても、視点を変えてみれば『温故知新産業』なんですね」
昔々、明治時代の電話に最近のコンピューターを取り入れた、あるいはカメラを取り入れたということ。
「よく新産業というんですけれども、まったく新しい産業って少ないわけですよね。過去にある産業の良いところを残して、新しいところを少し加えてあげれば『温故知新産業』です」
 年頭に当たっての抱負は。
 「キーワードで申し上げれば『川崎地域の経済活性化』。川崎の元気のために、そして川崎地域の産業振興のために、全力を尽くして参りたい」。
具体的には中小企業相談所を市内全区に設置する。
今年4月1日以降から順次手をつけていく。
 あと会員増強、3カ年計画で一万人に。
 「これも重要な事業でありまして、このためにはこのキャッチフレーズのように『夢のある会議所』ですね。そして『魅力あふれる会議所』。これを達成することが大事で、中小企業、ベンチャー企業の発展・成長を資するような、そして中小企業の経営問題を解決するための勉強会を増やしていきます」
「今も開業セミナーとかいろいろな勉強会を開催しているのですが、この数を増やしていきます。年間スケジュールの中で今のメニュー以上に増やしていきます。そして我々、一会員の会費が年間で2万4千円いただいているのですが、私はこの勉強会だけをとっても2万4千円ではなくてその10倍の24万円以上の価値のある勉強会にしたいと思っております。このメリットだけでも年会費2万4千円の10倍以上の価値があるような会議所を作って行きます」
「議員総会でも皆さんにお話ししましたけれど、リーダーシップが問われたと思っていますから、リーダーシップを発揮していきたいと思います」

***

やまだ・おさみつ
1947年10月1日生まれ。鹿児島県出身。【主な職歴】72年6月税理士資格取得、現在に至る。77年1月〜07年5月、山田長満会計事務所所長。07年6月〜現在、東京JAPAN税理士法人理事長。86年〜現在、経理バンク社長。03年〜07年、ケイエスピー社長。07年10月〜現在、経理バンクホールディングス社長。【主な公職】86年10月〜現在、一般財団法人・日本起業家協会理事長。89年〜現在、一般財団法人・山田長満奨学会理事長。97年4月〜99年3月、東京地方税理士会理事。99年4月〜05年3月、同税理士会常務理事。97年11月〜現在、川崎商工会議所議員。04年11月〜10年10月、同会議所副会頭。10年11月、同会頭。

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インタビュー  田島議長 親子2代で議長就任

2010-10-25 11:08:17 | インタビュー
 この5月、第103代目の議長に。実父・信雄氏と親子2代の議長就任。父親の議長から29年ぶり、原正巳議長から19年ぶり川崎出身の議長。
「責任の重さが伝わってきますね」
特に今夏、全国議長会が横浜であった。関東甲信越の1都9県、その座長も務めた。
「神奈川の首長に恥じないようにと、そういった意味で重さが良く分かった」
 「神奈川を愛する気持ちで、どう発展していくのか、どう発展させて行くのか、議会の立場から郷土愛の気持ちを持って当たりたい」と抱負を語る。
 県行政で不祥事が相次いだ。
「これは根の深い話なんです。議会の方でも当初なかった不適正経理を扱う特別委員会を急きょ2月に立ち上げ、それで6月まで随時、委員会審査をして当初、当局が発表したものだけじゃなくてその委員会の審議の結果、もっと出て来たんですよ。だからその意味では議会の役割が果たせたのかなあと少し思っていますが、特別委員会を設置しました」
「審議したら、もっと出てきちゃったんです。だから本当に根が深いなあと思うのです。まさか神奈川県でこんなことがあるなんて。それで逮捕された数名の者たちは言語道断なんですが、後は預け金でお財布のように出し入れしていたとか、ノートを発注したのに違うものがきていたり。これは本当にびっくりしました」
「議会として厳しいチェックをこれからも実践します」
特別委員会としてはもちろん、8つの常任委員会が各自のセクションで、その後も追跡調査をし、自分たちの所管のものを審査している。
 議長を務めた父親の
背中を見て育った。
「正直、こんなに厳しい仕事は絶対にするまいと思っていましたけれど、気がついてみたら後継の方がなかなかいなくて、それならばやらせてくださいということで。そんなことを思い出しましたね」
思い切って会社を辞めて県議へ。それから連続5期当選。
「これも山あり谷ありですが、本当に皆さま方に支えられてここまで来たことは間違いないことで感謝感謝です」
 議長になって超多忙な毎日が続く。
 「ちょうど今、千葉で国体をやっておりますから、開会式で天皇陛下をお迎えしたりしております。また、神奈川代表として選手団に激励に行ったりしています」
県体育協会の会長は柔道の山下泰弘さん。選手団の団長でもある。
「山下さんがとても素晴らしい方でスポーツを通じて、子どもたちの健全育成を図る目標があったり、本当に熱心に取り組んでいただいているのでありがたく思っています」
 モットーは「和を以って貴しと為す」。故信雄氏の遺訓でもある。
「みんなで議論をして良いものを作り上げて行こうという精神だと思います。その気持ちは議会として一番大切にしなければならないことだと思います」
 先ごろ、沖縄・尖閣諸島の問題が持ち上がった。管首相宛てに早速「議長声明文」を送った。思いついたら、すぐ実行に移す。(聞き手・山田裕男)

【田島信二議長略歴】
1958年1月、中原区上平間に生まれる。52歳。81年3月、早大商学部卒。91年4月、県議に初当選、以来5期連続当選。主な議会役職歴、92年5月25日〜93年5月25日、心身障害児者対策特別委副委員長。94年5月25日〜95年4月29日、農政企業常任委副委員長。95年5月23日〜96年5月23日、スポーツ振興対策特別委副委員長。96年5月23日〜同年9月12日、警察渉外常任委副委員長。96年9月12日〜97年5月23日、警察渉外常任委委員長。97年5月23日〜98年5月25日、水資源・みどり対策特別委委員長。98年5月25日〜99年4月29日、地域経済活性化特別委委員長。99年5月24日〜00年5月18日、厚生常任委委員長。01年5月23日〜02年5月24日、総務企画常任委委員長。03年9月19日〜04年3月17日、予算委委員長。09年1月13日〜同年2月16日、緊急経済対策調査特別委委員長。
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おめでとう春の叙勲 瑞宝双光章の齊藤 茂さん

2010-07-02 19:43:57 | インタビュー
遠距離操法の先駆者

 この春、瑞宝双光章を受章し、喜びいっぱいの齊藤さんに感想などを聞いた。
「5月10日に、妻と一緒に皇居に呼ばれ、陛下にもお目にかかりました。苦労ばかりかけた女房にも、良い孝行ができました」
 「こんな素晴らしい章をいただけるとは思ってもいませんでした。いつの間にか50年間、消防団員をやっていたので、そのお陰だと思っています。それに消防団や消防署の推薦があったからだと思います」
 当時、県内で初めてだった遠距離操法を考案したことも評価された。
 「多摩川から水を引いてみたいという話を当時の署長に話したら「考えてみましょう」ということで、河川敷で一回試してみて、これはいけるということで」
「第1回が高津小でしたから、多摩川からそこに引っ張ろうと考えたのですが、無理だったので、円筒分水からずっとホースをひっぱり小学校まで持って行きました。約1・2㌔〜1・3㌔でした」
 当時の木嶌士郎団長も了解、また署長や上司の人たちも支持してくれた。きっかけは、やはり阪神淡路大地震の影響だった。
 「あれが教訓。目の前に消火栓があるのに放水が出来ない、使えない。当時は農業用水とかたくさんあったから、そこにホースを突っ込んで訓練をやったんです。だから、絶対に川からひっぱりたいと」
遠距離操法は他の団にも広がっている。
「高津分団と作延分団は毎年やっていますし、去年、橘分団も自主防災訓練で初めてやりました」
 最近、女性消防団員を募った。現在、人数は10人。60代から20代の女性陣だ。
「皆さん、よくやってくれています。ポンプ操法も男並みだし、救急の講習を受けたり、すごい資格をみんな取ってしまった」
途中で消防団を辞めたいと思った事もあった。でも辞めなかった。今、50年携わった消防団を辞めてから1年が過ぎた。しかし、今でも高津分団の定員減少に心を痛めている。
(聞き手・山田裕男)

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インタビュー 山田太一さん

2010-05-24 22:57:49 | インタビュー
――多摩川をイメージされたということですが。
 川崎の話を書こうというよりは、なんとなく東京からみると川向うで、それで何か東京とは違う、例えばとてもワイセツな物があるんじゃないかと想像する人もいるし、奥様なんかで溝の口はヤクザがいるんじゃないかという風に、何か連想をかきたてるところがあるでしょ、川を渡るということで。
そういう場所の一つの現象として、多摩川の土手に近い町はずれのスナックで、口もきけない、耳も聞こえないという店主がポツンといて、そういう所だったら知った人と顔を合わせることもないし、何かそういう所に行ってホッとしたいっていう、うまく行かなかったときに。そういう場所がどんどんどんどん東京から減ってきて、それでビルとチェーン店がものすごく多くなっちゃったでしょ。だから何か川崎あたりにそんなスナックがあるといいなって思ったんです。
4年前に奥さんを亡くして、それも自殺されたわけで、それでその時のショックで自分を責めることやいろいろなことがあって心因性で聞こえなくなって、しゃべれなくなったという設定にしたんです。そうすると、やっぱり娘が自殺されたお母さんが来て、自分は心因性でそうはならなかった、娘はものすごく孤独で死んだんだろうと、で、理屈にも何もならないだろうけど、あなたの声を取り戻したいと。取り戻せば自分も何か救われると。そのストレートな話だったらそれだけの話ですが、それじゃあつまらないから。それで取り戻したらルーティな話ですから、そうじゃなくしてありますけれど。
 ―構想はいつ頃からですか。
 何年か前に週刊新潮のカラーページで、ある地域の話を書いてくれという話がありまして、僕は川崎に住んでいたので川崎主題にした短い小説を書いてくれないかということで、絵描きさんも川崎の人が良いということで。その時に黒井健さんという画家に、あまい絵を描かれる方ですが、麻生区の人ですから頼むと言うことで、聞こえない、しゃべれないスナックというのを考えたんですよ。でもそれは短いものですからそんなに起伏のあるストーリーは書けませんから、共同で友だちと出資して会社をやっていた中年の男で、もうかなり身なりも高級な物を来て、そんなスナックに似合わない男がそのスナックでお酒を飲みながら、新しく入ってきたまた孤独な人とちょっと喋ると言う話を書いたんです。それで、俳優座から話があったときに、なんとなくその話を思い出しまして、あれはあのままだともったいないと思いまして、それから中野誠也さんが演出を兼ねて出演を、出演たって結局中野誠也さんしか外側に名前が知られている人がいないキャスティングですから、そうすると相当重荷がかかってくると思ったんで、これはしゃべれない人だったら楽だろうと思ったんですよ。
 ―地元にお住まいの山田さんの舞台劇ですから、是非みなさんにも観劇してもらいたいですね。
(聞き手・山田裕男)


「沈黙亭のあかり」の一場面
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インタビュー 高津区長 船橋兵悟さん

2010-04-21 07:36:41 | インタビュー
新しい高津区の顔

区民とスクラム組んで

 「高津は良いところですねェ―」
 開口いちばん、当地が気に入ったらしい。
「歴史的な伝統をキチンと守り残している、というのが感想ですね」
 あいさつ回りをして、かつての上司や同僚などの知人に多く出会った。
「区民のみなさんが積極的にまちづくりに参画している雰囲気が伝わってくる。みなさんとうまくスクラムを組んでいけば良いのかなあと思います」
前職は、総務局の秘書部長。阿部孝雄市長の片腕として活動してきた。
着任早々、職員を前に
 「区長は初めて。皆さんから色々教わりながらやるが、行政の基本は、それほど変わるものではないので、特に市民のためにというよりは、市民と一緒にやる目線、これが大事」と訓示した。
特に窓口業務の人たちには、“基本の基本”で、頭の中で分かっているかもしれないが、あいさつをちゃんとやるよう指導した。
「市民はもちろん仲間や上司に対しても」
ひと声運動ではないが、一日必ず声をかけ合う。  
 「それでなくともパソコンの時代で、なかなかフェイス トウ フェイスが減ってきている」
父親を高校生の時に亡くした。母親ひとりに苦労をかけた。
 義理の叔父が高津土木事務所にいた関係で、北海道から川崎に呼んでくれた。中学生の弟と母親を置いて上京するのをためらったが、母親が、『お前の人生なんだから』と背中を押してくれた。18歳のときだった。
どうしても大学に行きたかった。それで、働きながら大学へ通った。
 1973年、市役所へ入所。最初は王禅寺の焼却場に。横浜の金沢八景から王禅寺まで、朝5時に起きて通っていた。そこで、元上司が久地の円筒分水の付近にアパートを世話してくれた。
「高津には縁があったんだなあと」
高津区は他の区と比べて一歩抜きんでているという。
「それは大山街道や橘の農のあるまちづくりにしても、円筒分水でも、地域資源にスポットの当て方がうまい」
「私の代で何か新しい事業を起こすより、むしろ、より緻密にというか、より確実なものにしていくのが私の仕事かなあと」
その中から何か新しいものが出てくれば、それはそれで新しい芽として育てればいいという。
 「外から高津区を見ていて、実際に評価が他区よりも高かった」
もちろん課題も残っている。
「駅前の放置自転車とか交通問題、子育て支援など。課題はたくさんあると思います」
「決定的に大きな問題というよりは、自転車対策とか子育て支援とか未来永劫ずっとやっていかなくてはならない」
(聞き手・山田裕男)

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インタビュー 高津警察署 署長 鳴海達之さん

2010-04-21 07:36:30 | インタビュー
新しい高津区の顔

全員で高津の安全安心を

 高津は初めての赴任。
「歴史のある街だと思いますね。また東京のベッドタウンでもあるのかなという感じ」
 1958年1月生まれの52歳。出身は青森、その後、小学校を卒業してから神奈川・小田原に。
 「署員全員で高津の安全安心を作っていこうと」
 一時、電機関係の民間会社に勤めていた。
 1978年1月の採用で、刑事警察の勤務が長い。巡査部長のときは機動捜査隊に2年。警部補の頃は暴力犯係長を3年、警部になってからは刑事畑が多い。
出先の署長は初めて。
 「責任が重いですね。自分が思い描いていた以上に重責です。就いてみて初めて感じました。何となくこんなイメージかなあと思って来たのですが、全然違っていました」
 管内は交通事故が多いのが欠点。
「狭い町の割には、結構交通網が交差している」
「高津に以前勤務していた人たちは、『区民祭と花火がありますよ』と必ず言いますよね」
趣味は、
「歩きながら美味しいものがあるよ、といわれて、それを楽しみにその周辺を散策すること。あと、妻と絵画を鑑賞に行くこと。主に洋画ですね」
最後に管内の事情について
「交通事故を減らしたい。死亡事故が、今年になってから4件もある。もうこれ以上悲劇をつくりたくはない」
「高津の人たちは良い人ばかり。あいさつ回りをして温かみを感じました」
自宅は横浜・青葉区。家族は妻と大学生の娘が一人の三人家族。
 街を散策し、その土地のグルメを楽しむ。
(聞き手・山田裕男)


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インタビュー 立正佼成会 川崎教会発足50周年 川崎教会長 鈴木啓太郎氏に聞く 頼もしい教会にしたい

2010-02-25 12:00:19 | インタビュー
 立正佼成会の川崎教会が発足したのは昭和34年12月15日、当時は川崎支部として発足した。昨年12月に発足50年目を迎えた。法華経の仏教精神を信仰しつづけて半世紀。8代目教会長の鈴木啓太郎氏に50年の歩みを聞いた。(聞き手・山田裕男)


 ―川崎教会発足50年を振り返ってのご感想を。
 地域の方々のおかげです。この半世紀は、これまでを反省する時でもあると思います。そういう意味で原点に返りまして、人々の幸せと地域社会の平和、世界の平和のためにこの立正佼成会が創立されたわけですから、その原点に立ち返ってしっかりやっていきたいと思っております。

 ―入信されたのはいつ。
 信仰は2代目でして、私の母親が昭和25年に入会しておりました。
 私自身の目覚めは、ちょうど20歳の時に交通事故を起こしまして、相手の人が倒れて救急車で運ばれる時も助かるかどうか分からないと。その時、私はある意味で、自分の力で何でもできるんだと傲慢でした。
佼成会の信仰が、自分の信仰ではなくて親の信仰だったんです。しかし事故にあって相手が助かるかどうかわからないと、自分の力では助けることはできない、どうすることもできないという限界にぶつかった時、相手の人が助かってほしいと祈るしかなかったんです、信仰にすがることしかなかったんです。それが私にとっての大きな転機でした。それを契機として、やはり自分の力が及ばない世界があるんだな、自分一人で生きているのではないんだなあと、自分もいろいろな人に支えられているんだなと。
自分の信仰としてこの立正佼成会の活動をやってみよう、取り組んで行こうと。大学生活で、開祖・庭野日敬(にっきょう)様の教えである、自分の宗教だけが正しいという考えではなく、あらゆる宗教にも真理があるんだ、おかしな宗教は自然に淘汰されているんですよ、でも正しい宗教であればお互いに協力し合って、世界の平和のために貢献していこうと。
立正佼成会はこの宗教協力が非常に大きな特長があります。そういう寛容な考えであり、本当に全身全霊をかけて取り組まれた今の開祖の大きさと言いましょうか人間としての広さ、大きさ、つまり非常に感銘を受けまして、その中で、そういう面で何かお役に立てればいいと思いました。
会員綱領にありますが、佼成会の信仰のあり方、人格の完成と家庭、社会、国家、世界の平和に向けての立正佼成会の信仰の素晴らしさに気づかしていただいて、この道で進めさせていただこうと。

 ―今年は、川崎教会の51年目のスタートですが、教会長としての抱負は。
 改めて、原点に戻って人々の幸せ、地域社会の平和ということに向けて、一人ひとりを大事にさせていただきながら、そしてこの川崎教会を本当に温かい憩いの場にしていきたいなと思います。 
 そういう意味では仲間のみならず、地域の方、また他宗教の方ともお互いに良き仲間として、良き友とならせていただき、温かい、また現実に幸せになって互いに苦しみを乗り越えて行かれるような教会に、日本一楽しく、温かく頼もしい教会にしていきたいと思います。


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この人に聞く 商工会議所 会頭 西岡浩史さん「ドブ板ローラー作戦実施」

2010-01-13 13:01:34 | インタビュー
 商店街を含めた産業界を含め、この痛んでいる地場の会社と、どうやって格好良く運命共同体的なコラボレートできるか、一緒にやっていけるかということの模索をしたい。カッコよさはいらない。泥臭く、何をしようか、何をする、何をすれば期待される商工会議所になるか。本当の原点の部分で何をすればいいかと、それを行政に問いたい。
良い意味での産業界、経済界と行政、両輪でやるということが必要。
先の選挙で阿部市長が当選した。阿部市長でなければ困る。どんなに優秀な人が来ても、やはりトップが職員を使いきれませんよ。
ある面ではやらなければならない課題を積み上げていく、そのなかで川崎の町が本当に注目をあびて、日本を代表して発信していく、川崎モデルとして。それをずっと狙っている。
 したがって、先ずは土着民的に、地場の人と徹底した汗をかくというか、お役に立つことは何だということから始めたい。
まだ商工会議所は、メンバーと距離がある。いくら歩いても、会員が身近に感じない限りダメ。だから、こちらから歩くということ。
そのために、「ドブ板ローラー作戦」を指示している。会員全部に歩かせている。
 したがって、もう一回、地べたを這いつくばってでも川崎の魅力をどう発信するか、模索している。
それと市民参加。やはり川崎を良くしようとするには、市民も良くしようとする意識がないとダメ。ところが、川崎は縦に長いため、川崎の住民と思っている人が少ない。 
先ずは事業主。ヤル気になってくれないと私たちがいくら言ってもダメ。それをどう一緒になって信頼関係を構築して行くか、そういう場面を作りたい。一人でも二人でもそういう人が増えてくれればいい。それが地道な、共に汗かく会議所、“共汗”を呼ぶという。
やはり共に汗をかく“共汗”と、共に感動する“共感”です。そういう世界が生まれるはず。するとお互いが努力し合う。
 それからもう一つは道路行政。世界中どこへ行ってもバックボーンとして民間道路がある。それに枝葉として町が発展する。そこのところが、川崎の行政はできていない。
 海外に行くと運河とか川をうまく使って道路を作っている
やはりハブ空港、羽田ということを考えると道路がきちんとしていないと。第三京浜と東名高速、外郭環状線と中央環状とアクアラインも入れて、大きな大環状を作らないとダメ。それが「大首都圏構想」。
インフラを整備しないとダメ。
ですから、国策とか国益とかの中でコラボレートして、引くものは引く、出すものは出すと、協力を求めるものは求めると、そういう面では指導者がいない。だから政治家も小物になった。
 道路についてもう一つ。やはり国際都市にふさわしい川崎の町がどうあるべきかというと、市民参加の中でやってほしい。そういうものを行政でリードしてほしいと。
(聞き手・山田裕男)


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(社)川崎青年会議所 理事長 鈴木尚樹さん 「60周年に向け総まとめ」

2010-01-13 13:00:26 | インタビュー
 入会して8年目。きっかけは地元の先輩から誘われて。
「正直なところ、どういう組織かも分からず、地元の知り合いが増えれば良いかなと思って入ったわけです」
生まれも育ちも多摩区登戸。職業は飲食業。
「みなさん年上のメンバーばかりですから、上下関係といいますか、社会の仕組みといいますか、そういうのをいろいろ教わりました」
 組織としては当然ボランティア団体。地域を良くするというのがJC組織の大前提。
 スローガンは「稽古照今(けいこしょうこん)」。サブタイトルとして「先達の志を胸に」。
古事記の序文にある。古きを考え今を照らすと。
2011年度は創立60周年。
「もう1回、60周年を前に総括しましょうと。戦後の復興の時代に先輩たちが、どういう思いで、川崎をどういうふうにしたくてこの団体を立ち上げたのか、もう一度みんなで考えてみようと」
「もう一度原点に返ってボランティア精神というか、奉仕の心。どういう思いで先輩たちがやってきたかを、僕たちが伝統と歴史を受け継いできているのかを、考えた上で一年間運動をしていきましょうと」
「もうひとつ、今年は青少年対象の、地域のことを考えた新たな事業を構築しようとしています」
テーマは青少年、子どもたちと川崎の魅力を再発見する事業。
「やはり新住民の方も非常に多いじゃないですか。そういう人たちにも知ってもらいたい。何かないかなとアクションを起こしていきたい」
マンパワーについて「一人でも多く入ってもらえれば、それだけ僕らの運動を理解してもらえるということですから、告知やPRなど広報的な部分も強化していかないといけないと思います」
 (聞き手・山田裕男)



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インタビュー 瑞宝双光章の井口衛さん 川崎に恩返ししたい

2009-12-04 20:02:19 | インタビュー

「(叙勲を受けたのは)皆さん方のお力で、本当にありがたいと思っております」
 教職歴は37年、全部川崎市内。
東京・渋谷で生まれたが、父が長野県の浅間に住んでいたので、疎開して小中高校と松本市で育った。
 鎌倉に横浜国大があり、そこで受験したら受かった。
寮住まい、
「貧乏をしていたもので、アルバイトをやっていた。あの頃はみんなそうでしたが、昭和34年頃です。厳しい頃でした」
 初めは、長野県は島崎藤村の小説『夜明け前』に影響され、「もし、あわよくば新聞記者になりたいと思っていた。正義の味方みたいな」
それで、大学受験が一次、二次とあったが、一次を滑って二次で受かって国大に。「自然と教師の道になったのかもしれません」
それで第一歩が住吉小学校だった。その後も小学校一本槍。
その後、高津小学校へ。
「やはり川崎の「続・川崎の教育史」の編集に関わったことが、違った意味で転機だったと思います」
 「私は人に生かされて生きてきたという実感があります」
「恩師とか同僚とか後輩とか先輩とか、それに地域とかPTAとかに恵まれたと思っています」
 48歳の時、東菅小学校で教頭に。3年間務めた。
 定年退職して、NPO法人・教育活動総合サポートセンターを仲間と立ち上げた。今年で6年になる。不登校の相談に乗り、復校するのが目的だ。
「やはり、元は川崎の教育界を動かす仲間が集まったわけですから、その志を忘れないようにずっと続いてくだされば有難いと思います」
(聞き手・山田裕男)
 
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