べんきょうなせん(='ω')

べんきょうは論理で考えるトレーニング
熊本県山鹿市中高大学受験の "あすく" です

天の虫、おカイコさま(1)|山鹿市と養蚕業

2014年06月26日 | 山鹿をさるく
モスラ。カイコという昆虫をモデルにした怪獣です。

 カイコの幼虫は脱皮(だっぴ)をくり返し大きくなり糸をはいて、繭玉(まゆだま)のなかで成虫へと変わります。成虫は飛ぶこともなく、繭から出ると卵を産みすぐ死んでしまいます。幼虫のときは元気良くワシワシ桑(くわ)の葉っぱを食べていたのに、弱々しくふるえる白い成虫が次の日には死んでいる。ものさびしい気持ちもわきますが、当のカイコは精いっぱい生きて自分の役割を果たしただけなのかもしれません。

なんでミツバチすぐ死んでしまうん?|音読を楽しもう

 カイコは「蚕」、天の虫と書きます。繭玉から絹(きぬ)糸が作れるのです。絹はシルクとも呼ばれ高級品です。縄文時代末、稲作とおなじころ日本に養蚕(ようさん)が伝えられます。江戸時代末には重要な輸出品になっていました。


>代金としての金銀銅の流出を懸念(けねん)した江戸幕府は養蚕を推奨し、諸藩もが殖産(しょくさん)事業★として興隆を促進した。結果、幕末期には画期的養蚕技術の開発・発明がなされ、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸(きいと)★が生産されるようになった。日本が鎖国から開国に転じたのはこの時期であり、生糸は主要な輸出品となった。

>明治時代に至(いた)り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。養蚕業・絹糸は「外貨獲得(かくとく)産業」として重視され、日本の近代化(富国強兵★)の礎(いしずえ)を築いた。日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞(せっとうじ)を付けて呼称したほどである。もうひとつの背景としては、同時期においてヨーロッパでカイコの伝染病の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあった。1900年頃には中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、1935年前後にピークを迎える。

>だが1929年の世界大恐慌、1939年の第二次世界大戦、そして1941年の太平洋戦争によって、生糸の輸出は途絶した。一方で1940年には絹の代替品としてナイロンが発明された。戦災もあって日本の養蚕業は、ほぼ壊滅に至る。敗戦後の復興を経て、ようやく1970年代に再度のピークを迎えるも、1935年の半分以下に過ぎなかった。その後も、農業人口の減少や化学繊維(せんい)の普及で衰退が進み、現在では最盛期の1%ほどになっている。

(ウィキペディア・パソコンむけ


くまにちコムより 2014/05/21

>同飼育場によると、県内の養蚕農家は山鹿市2軒、大津町と美里町各1軒。和水町で新たに1軒が加わった。屋内には、カイコが桑を食べるザーザーという雨のような音が響いていた。

>カイコは昨季から、労力軽減のため最終脱皮まで飼育場で育てられており、農家の飼育期間はこれまでの半分となる約10日。5月下旬にはまゆを作り始め、6月上旬に出荷期を迎える。(ここまで引用)


 続きます。(塾長)


熊本製糸工場大煙突跡(熊本学園大学大江まちづくり・パソコン向け

和水町城北製糸工場跡(七転び八起き・パソコン向け


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