たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(十三日町)

2011-07-28 | ぶらり盛岡
(8)十三日町(じゅうさんにちまち)・餌差小路(えさしこうじ)

城下町盛岡は江戸時代の前期・中期には町名は「町」の字を使用していたが、江戸後期の文化9年(1812)には「丁」の字を使い、23町から28丁となって発展し、明治時代にいたっています。城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川の南側を河南地区、北側を河北地区と呼んでい。28丁の名前の町は次の通りです。

河南地区の丁(町)
仙北丁、青物丁、川原丁、鉈屋町、石(穀)丁、新石(穀)丁、馬町、十三日町、六日丁、呉服丁、生姜丁、肴丁八幡丁、葺手丁、紺屋丁、鍛冶丁、紙丁
ここで、十三日町と馬町の二つが町(まち)と呼ばれている。「うまちょう」と呼ぶより「うままち」の方がゴロが良いからなのでしょうか。

河北地区の丁(町)
本丁、油丁、大工丁、花屋丁、四ツ家丁、八日丁、三戸丁、長イ丁、材木丁、茅丁、山岸丁

また、文化11年(1814)には、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定めている。
馬場小路、鷹匠小路、餌差小路、大清水、平山小路、帷子小路、日影門小路、仁王小路、上田小路、上田与力小路、大沢川原表、加賀野など



十三日町とは,毎月13日が市日であったことに由来。新山舟橋・穀町惣門・馬町に近く,旅人の出入りが多く,宿屋が繁昌した。十三日町に近い外堀の上には鐘楼が立ち,城下河北に時を知らせる「三戸町の時鐘」と並ぶ城下河南の時鐘があった。

十三日町に平行に餌差小路があり、餌差小路は文字通り御餌差が住んでいたことに由来。鷹の餌にする小鳥を捕獲・飼育する微禄の者が住んでいた。

また近くには鷹匠小路があり、鷹匠小路には,藩主が鷹狩りに使う鷹を調教する鷹匠が住んでいた。この鷹の必要な餌を調達するのが,御餌差の役であった。明治9(1876)年の明治天皇巡幸に際し菊池金吾邸が行在所(あんざいしょ)となったため,新たに肴町方面から通じる道が造られ,御幸新道(みゆきしんどう)と呼ばれた。明治14(1881)年にも行在所とされ,庭前の松を見馴れ松と命名されたが,明治17(1884)年の盛岡大火でこの松も焼失し,同19(1886)年に松樹を下賜されて植えたことから,賜松園(ししょうえん)と呼ぶようになった。現在は盛岡市杜陵老人福祉センターとなっている。このセンター前を通り餌差小路の方に進むと左側に国指定天然記念物の「シダレカツラ」がある。なお、十三日町の町名由来の案内板は現在撤去中です。






十三日町


十三日町



餌差小路



賜松園




賜松園の庭園




国指定天然記念物「シダレカツラ」


カツラの木の枝は、普通直立型の枝を生ずるが、シダレカツラの枝はいずれもしだれており、学術上珍奇な変種とみなされる。このシダレカツラは120年ほど前に盛岡市大ケ生の龍源寺から根分けして植栽されたものである。大正13年(1924)に国指定天然記念物になった。(案内板)




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啄木の盛岡中学時代の歌  ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

  花ひとつさげて流れてまたあひて白くなりたる夕ぐれの夢
 
 
啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その26)

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