たかしの啄木歌碑礼賛

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盛岡の旧町名(穀町・新穀町)

2011-07-16 | ぶらり盛岡
城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川を堺にし、中津川の南側を河南地区、中津川の北側を河北地区と呼んでいた。文化9年(1812)当時の町名は次の通り。

河南地区の丁(町)17
仙北丁、青物丁、鉈屋町、川原丁、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、六日丁、呉服丁、肴丁、 生姜丁、 八幡丁、葺手丁、紺屋丁、鍛冶丁、紙丁
ここで、十三日町と馬町の二つが町(まち)と呼ばれている。馬丁(うまちょう)と呼ぶより馬町(うままち)の方がゴロが良いからなのでしょうか。

河北地区の丁(町) 11
本丁、油丁、大工丁、花屋丁、八日丁、四ツ家丁、三戸丁、長イ丁、材木丁、茅丁、山岸丁


(5)穀町(こくちょう) (6)新穀町(しんこくちょう)

穀町、新穀町は盛岡バスセンターから明治橋の方向に歩くと10分ほどで、左折すると新穀町、右折すると穀町です。まっすぐ進むと5分ほどで明治橋です。






町名由来の説明板




穀町と新穀町とは、惣門を中心にした町。古くは石町と書き、文化9年(1812)に穀町と改められたうえ、二つの町に分かれた。両町と川原町には、豪商が多く糸治(または、いとや)、木津屋、泉屋をはじめ、いろいろの商家がならび盛岡城下では最も繁盛した地域だった。穀町は、古くは三日町といわれた。年の暮の12月の9、19、29日の3回、新山河岸の御蔵の米の払下げが行われたことによる。穀町の名のもとになった。惣門には桝形と御番所、役人屋敷24戸があって、城下へ出入りする人と物を取り調べた。門は、朝六時に開け、夕六時に閉じられた。穀町には旅館が多く、諸国や藩内の商人、旅人、江戸後期には蝦夷地警備に向かう東北諸藩の武士なども宿泊した。穀町から大清水小路へ抜ける道は、会所場横町と呼ばれ、、牢屋も付設され、罪人の処刑も行われた。




国重要文化財 商家「糸治」(旧中村家住宅) 盛岡中央公民館敷地内





中村家は「糸治」または「糸屋」とよばれ大きな商家で、呉服などを商っていた。現在の建物は文久元年(1861)に造られており、昭和46年国の重要文化財に指定された。その後、建物は盛岡市中央公民館の敷地内に移転されてた。移転前は「糸治」と「木津屋」は道路を挟んで向かい合っていた。





木津屋(現在も旧新穀町で営業している)





木津屋の脇に立つ「盛岡城警備惣門遺跡」の碑















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