たかしの啄木歌碑礼賛

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盛岡の旧町名(下小路)

2012-01-13 | ぶらり盛岡
(16)下小路(したこうじ)

現在の盛岡中央公民館前の通りで、本町、油町から国道4号バイパスを横切り山岸町までの長い通りです。




下小路



盛岡中央公民館前の旧町名案内板






下小路の名は,愛宕山の下にある侍町の小路から付けられた。ここの武家屋敷は間口が狭く,下級武士の屋敷町でした。愛宕山は盛岡城下を一望できる景勝地で,城の東北の鬼門に当たるため,3代藩主南部重直の時代に法輪院広福寺が建てられ,城下の鎮護とした。ほぼ全山に寺社があったが,明治維新の廃仏毀釈運動によって衰退し,現在は往時を偲ぶ遺跡などはなくなっている。黒田騒動で盛岡へ配流となり客死した栗山大膳と大吉父子の墓が,愛宕山中腹の法輪院跡に残っている。

下小路の西側の中程に位置する現盛岡市中央公民館の場所は,4代藩主南部重信の時代に城中の薬草を栽培する御薬園として造られことに始まる。その後,御殿,御茶屋,能舞台,庭園などが設けられ,下小路御屋敷と称し藩主遊歩の地とした。明治維新の混乱によって,建物や庭園は取り壊され,一時荒廃したが,明治41(1908)年に南部伯爵家別邸が新築された。戦後,別邸を譲り受けて,昭和33(1958)年に盛岡市公民館が設置された。公民館の庭には,明治天皇が東北巡幸の際に宿泊所として利用した「聖風閣」、第19代内閣総理大臣 原敬(はらたかし)の別邸内にあった「田舎家」を移築した「白芳庵」、盛岡出身の俳人・山口青邨(やまぐちせいそん)が幼少期を過ごした家屋が「愛宕亭」として復元されている。





聖風閣



白芳庵



愛宕亭



現在、下小路と名のつくものには、下小路中学校があります。下小路中学校は盛岡市内にある、5つほどの小学校から集まり、盛岡市内では大規模校の1つです。






下小路中学校校歌

愛宕の山の 片ほとり
中津の川の 岸ちかく
森の都に ふさわしく
うずの学び舎 建ちにけり




下小路中学校の校歌にあるように、下小路は愛宕山のほとりで、中津川に沿った町です。中津川の北側を河北地区、南側を河南地区といいますが、中津川に沿った北側が下小路・山岸で、南側が加賀野になる。山岸と加賀野を結ぶ中津川に架かる橋が山賀橋で、下小路と加賀野を結ぶ橋が文化橋です。


下小路中学校のすぐ裏には、「岩手」の県名の起源といわれる、石に手形のある、鬼の手形「三石神社」があります。




三石神社








三つの石(裏側から撮影)




神社の壁には、鬼の手形がこう見えますよと「鬼の手形」が




現在は、この鬼の手形は、風化され?、ほとんど見えません





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啄木の盛岡中学時代の歌

  野の水にそとぬすみ見し水姿若きを人の花に頬ずる

 
岩手日報(明治34年12月4日) 白羊会詠草(二) 花売の歌 石川翠江 名で4首(その3)

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