たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

厨川の柵

2011-03-04 | ぶらり盛岡
江南義塾盛岡高等学校内の啄木歌碑のところで、厨川柵にふれましたが、柵の場所と言われる周辺を散歩してきました。厨川の柵は安倍氏がは奥六郡(現在の盛岡から県南平泉まで)支配のため、いくつかの柵(軍事拠点)を設けました。最北端の処点である厨川柵は安倍頼時が興し、その後次男安倍貞任が拠点としましたが、前九年の役において源義家らとの決戦場となり、1062年、安倍氏の勢力はここで絶たれました。
一方、1189年源頼朝は奥州藤原氏討伐の軍を起し、平泉を攻めおとし、工藤行光に岩手郡を給した。工藤氏は厨川館(里館遺跡;天昌寺町)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな厨川城(安倍館遺跡;安倍館町)を築いた。なお、この城は1592年に取り壊されています。工藤氏の厨川城(安倍舘遺跡)については発掘調査の結果16世紀の城跡であることは明らかになったが、安倍氏の厨川柵跡については、今のところ不明です。盛岡市教育委員会は、昭和54年、秋田に通じる国道46号沿いの天昌寺の裏側に「厨川柵」の説明板を建て、この地を厨川柵の『擬定地』と指定しています。


説明板があるこの場所は天昌寺の裏側になり、道路は国道46号です。




天昌寺の正門側



厨川柵跡を明らかにするためには、前九年の役の経過を述べている「陸奥話記」と、発掘調査に頼ることになります。陸奥話記は著者が誰なのかもわからず、勝者側のからだけ見た記録でもありますし、違っているところがあるかもしれません。また、北上川や雫石川にしても当時は蛇行して流れてたのでしょうし、発掘調査からも決め手となる "もの" は出ていないようです。以上により、厨川柵跡は現在不明となっております。

ぶらり歩いてみて、私なりに、次のように整理してみました。
安倍氏は現在の盛岡市の西側に厨川柵と嫗戸柵(うばとのさく)を設け最北端の拠点とした。この場所は北上川と古代雫石川の合流点にあり、二つの川は自然要塞となっていた。雫石川側には、里館遺跡(さたていせき)を含む天昌寺台地に「厨川柵」を、北上川側には安部館遺跡を含む安倍館町に「嫗戸柵」を設けた。(雫石川側が嫗戸柵で北上川側が厨川柵だったのかも知れません)。この二つの柵は一連の柵を構成しており、その中間の前九年町の小高い森に「敵見ケ森」を設け、安倍軍はここに櫓を組んで見張所としていた。この敵見ケ森(かたきみがもり)は現在、狐森稲荷(敵見ケ森稲荷)になっています。里舘遺跡と安倍舘遺跡の間は約 1km あり、狐森稲荷は、ほぼその中間にあたります。
安倍舘遺跡には貞任・宗任神社もあり、盛岡の人の多くは?工藤氏の厨川城跡より安倍氏の厨川柵跡と思っているようです。

        

安倍舘遺跡



貞任・宗任神社



安倍舘遺跡を北上川の対岸より撮影



敵見ケ森稲荷(狐森稲荷)




当時の厨川の範囲がどの辺までを指すのか明らかでありませんが、安倍氏時代の11世紀の城柵遺跡としては、隣村の滝沢村の八幡館山遺跡、大釜舘遺跡などがあります。





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啄木の盛岡中学時代の歌 ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

  人けふをなやみそのまゝ闇に入りぬ運命のみ手の呪はしの神  

  

啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その1)

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