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恵庭「北の零年」,開拓の先駆け「高知藩」

2015-10-06 17:07:12 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「歴史を訪ねる」の章

平成17年(2005)に公開された「北の零年」(行定勲監督作品)という映画がある。出演者に吉永小百合,渡辺謙,豊川悦司,柳葉敏郎,石原さとみ,寺島進,石橋蓮司,香川照之ら名優を揃え,第29回日本アカデミー賞と第23回ゴールデングロス賞に輝いた作品である。ご覧になった方も多いと思う(テレビ放映もあった)。

内容は,明治政府により徳島藩淡路島から北海道静内への移住を命じられた「稲田家」の人々の物語である。稲田家は徳島蜂須賀家の客将であったが淡路洲本城代に任命されるなど半独立状態にあり,かつ尊王を掲げる稲田家は佐幕派の蜂須賀家との間に確執が続いていた。明治4年(1871)に筆頭家老稲田邦植が蜂須賀家臣に襲われる事件(康午事変)があり,明治政府は「稲田家に北海道静内と色丹島を与える名目で移住開拓を命じる」裁断を下したのである。映画では,北海道開拓の苦労と人間模様が鮮烈に描かれ,開拓初期の北海道を感じさせる作品であった。

ちょうどこの頃,同じ四国の土佐(高知)からも,事情は違うが北海道開拓に入植した人々がいた。高知藩による北海道開拓である。土佐高知からの70余名は恵庭など千歳・勇払郡下で開拓に取り組んだが,明治政府の政策転換により僅か2年で撤退を余儀なくされてしまう。

恵庭開拓史の中では,明治19年(1886)の山口県団体移住や明治24年(1891)の加越能開耕社(北陸)が知られており,明治3年(1870)の高知藩による開拓は影が薄い。高知藩は藩を挙げて開墾に努めたが,北海道開拓は開拓使に一本化されることになり藩支配は罷免された。開拓に関わった人々は,どんな気持ちで故郷に戻ったのか。明治初頭の混乱期におけるこの歴史物語は,まさに恵庭「北の零年」と言えよう。高知藩統治は恵庭開拓の先駆けであったのだが・・・。 

 

1.高知藩による「恵庭」開拓

明治政府は蝦夷地の警備と開拓を急いだ。北方からの脅威に対処すること,明治維新後の幕藩の処遇が大きな理由であったのだろう。明治2年(1869)開拓使を置き蝦夷地開拓の任に当らせるとともに,名称を蝦夷から北海道に改めた。

同年8月には,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領し支配統治させる太政官令を発した。しかし,出願に名乗り出る藩は少なく,むしろ強制的に土地を割り当て,支配開拓を命じる状況であった。例えば,胆振地方に高知藩・一関藩・伊達邦忠ら,日高地方に仙台藩・徳島藩・増上寺ら,十勝地方に静岡藩・鹿児島藩ら,釧路根室地方に熊本藩・佐賀藩ら,網走地方に名古屋藩・広島藩・和歌山藩ら,宗谷地方に金沢藩,留萌地方に水戸藩・山口藩などが分割されている(参照:橋田定男「北海道開発と高知県人及び屯田兵制度」土佐史談191)

多くの藩は様子見であったが,高知藩の動きは素早かった。高知藩は太政官令を受けると同年8月に土方理左衛門名で出願し,即8月20日には石狩国之内夕張郡,胆振国之内勇払郡・千歳郡の支配地認可を得て,同地は高知藩の支配管轄となった。その後の流れは以下のとおりである。

明治2年(1869)

7月:開拓使設置。

8月15日:「北海道」と改め,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領することにした。

8月:太政官布告を受け,高知藩の出願により同月20日夕張郡,勇払郡,千歳郡が高知藩管轄として認可される。

9月:高知藩は藩士「岸本円蔵」「北代忠吉」,従者「杉本安吾」らを調査のため派遣。

10月9日:高知藩は北海道開拓志望者募集を布告。

11月8日:岸本らは東京に戻り,高知藩東京詰「土方理左衛門」に調査結果を報告。夕張郡は山間地で調査できなかったが,勇払郡は畜産,千歳郡は農耕に適するだろうとした。更に,勇払地区海岸は遠浅のため室蘭港を支配地に要請したが,既に仙台藩に握られていたため函館に屋敷及び荷揚場を設置し,商社を設立して運営に当った。

明治3年(1870)

5月初旬:開拓者一行(70人,役員十数人と大工・人足・農夫など)は高知浦戸港を出帆。

5月7日:外国船で横浜を出港。

6月上旬:函館に上陸,地蔵町の高知藩借用屋敷に落ち着く。勇払,千歳郡各地へは当面出向(出張)の形で開拓を進め,数年後に家族を移住させることを考えていた。勇払郡内ではコエトイ,ユウフツ,アツマ,ウエンナイに,千歳郡ではチトセ(現千歳市),イサリ(現恵庭市),モイサリ(現恵庭市),イサリフト(現恵庭市)に開墾所を置いた。

9月13-14日:米沢藩士「宮島 幹」が高知藩支配所(千歳郡)を訪れた際の日誌(北行日記)が残されており,この記録から当時の状況を垣間見ることが出来る。例えば「十三日 晴・・・漸く島松に至る。川あり,十四,五間馬にて渡る,渡れば是より東,胆振国千歳郡高知藩支配所なり・・・当初(千歳)は高知藩支配地にて,諸役人八人其外大工,人足,農民共凡五十人斗出張の由・・・」,更に宮島が岩井源九郎から聞いた話として「同十四日 快晴厳霜 千歳より五里斗北の方イサリフトへ三千坪(約1ha)程開拓しに,七月十五日の水にあい,開拓小屋迄も尽く流れし・・・六月中大野村より稲苗申受三ヶ所植付候処一ヶ所は水難にて不用立,弐ヶ所は砂地にて水持宜しからず,壱丈程の車を補理使付しに最早穂先こごみ余程実りし由なり。実地は奥物不用立に付,国元にて二作物の早稲を以て植付候て必実るべくとの事なり。此度引連れ来りし農夫は,国元にて最上力田の民を引き連れしと云う・・・」等である(引用:恵庭市史262p,千歳市史123p)。

明治4年(1871)

7月:廃藩置県

8月:高知藩支配地罷免,地所は全て開拓使に引き渡される。

明治5年(1872)

5月1日:引き継ぎ完了。高知県勇払出張岸本円蔵は,開拓使に引き渡すべき仕込品の代金千二百九十一両二分を出張中の費用にあて,開拓使から旅費三千両を借用して農民らの帰国費用に当てている。

高知藩開拓団は食糧や農具・家具一式を持ち込み,千歳郡下で開墾したのは7町8畝15歩(千歳本陣許5町6反2畝12歩,イサリフト番屋附7反歩,シュママップ昼所7反6畝3歩)であった。穀類や野菜の種子も持参し栽培を試みたと考えられるが,「蕎麦」「水稲」以外の記録はない。高知藩は北海道開拓に熱意を持って取り組み5万両もの大金を支出したが,開拓はこの地で結実しなかった。

何故これほどまでに高知藩は熱心だったのか? 山内容堂の見識と坂本竜馬「蝦夷地開拓論」の影響があったのかも知れない。 

 

2.坂本竜馬の蝦夷地開拓論

坂本竜馬は慶応3年(1867)3月同志印藤聿宛ての手紙で,「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より,新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間,何卒一人でなりともやり付申しべくと存居申し候・・・」と書いている。大政奉還で武士が職を失うことを予想して,その力を北海道開拓に活かすことを考えていたのである(いわゆる,竜馬の蝦夷開拓論)。この構想は後に,西郷隆盛,黒田清隆らによって「屯田兵制度」として実現する。

その他にも,竜馬の思いを具現化するように,高知から北海道開拓に向かった人々がいた。代表的な開拓団は,浦臼の「聖園農場」と北見の「北光社」である。前者は明治26年(1893)高知の自由民権運動家でキリスト教徒の武市安哉(当時国会議員)に率いられて入植した団体であり,後者は明治28年(1895)坂本竜馬の甥「坂本直寛」(旧名,高松南海男)等が中心になって設立した合資会社(移民団体)である。この両団体は,キリスト教精神に基づく理想主義的農村共同体を目指していた。両団体は浦臼や北見の開拓に多大な貢献をしたが,詳細については別の機会に譲ろう。

その他にも,開拓判官岩村理俊,札幌農学校第一期生の黒岩四方之進・内田瀞・田内捨六,開拓会社「開進社」(共和町)の宮崎簡亮,「男爵」薯の川田龍吉,コタンの父と呼ばれる徳弘正輝など土佐出身者と北海道の開拓は深い繋がりがあるが,此処では触れない。 

恵庭の現在の繁栄を享受するとき,語られることの少ない歴史物語,高知藩開拓悲話を忘れる訳にはいかない。

参照: 1)恵庭市1979:「恵庭市史」,2)千歳市1969:「千歳市史」(更科源蔵編集),3)苫小牧市1975:「苫小牧市史」(高倉新一郎ほか監修),4)岡林清水「土佐と北海道」土佐史談191,5)橋田定男「北海道開発と高知県人及び屯田兵制度」土佐史談191

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