オウム真理教の菊池直子容疑者が捕まったと新聞にも出ていたし
夜のニュースでもやっていた。
菊池容疑者は「もう逃げなくてもよくなってホッとした」という意味のことを
語っておられたという。
ニュースの古館キャスターは
「今もオウム真理教の被害で苦しんでいる人たちのことを思うと
ホッとしたなんて本当によく言えるものだと感じます」
とおっしゃっていた。
確かに古館キャスターのおっしゃるとおりなのかも知れない。
しかし、僕は直感的に古館キャスターのおっしゃりかたも17年間も
逃亡生活を強いられた方にはあまりにもむごいおっしゃりかただと感じた。
僕は宗教というものにかなり影響を受けた人間なので
もちろんサリン事件は起きてはいけない事件だったとは思うけれど
それでもなおかつ宗教の被害にあった人に同情的になってしまうところがある。
菊池容疑者は今40歳だと報道されている。
そして17年間の逃亡生活。
計算すると23歳から40歳までの17年間、ある意味自分を消して生きなければならない人生
そして多かれ少なかれ何かにおびえて生きなければならない人生
そんな人生ってどうなんだろうとおもってしまう。
ほかにも僕が同情的に思ってしまう人がいる。
聖書をとても原理的な読み方で解釈し
それを日々NHKの集金人が家々を訪問するように
各家庭を訪問して解いて回る人たちのことだ。
大概の人は、玄関のベルを鳴らされて「聖書を読んだことがありますか」
などといわれたら「そんなもの興味ありません」とまともにはとりあわないだろうけれど
僕はなぜかそういう人たちの話を特に急ぎの用事がない限り最後まで丁寧に聴いてしまう。
そして思う。あの人たちの聖書の読み方はいかれている。
洗脳されてしまっていると。
ひるがえって自分のことも考えてしまう。
僕はまだ小学生のときに八王源大師と名乗るおじいさんに出会って
その人にすっかり魅せられってしまった。
今でも八王源先生が僕が本当の意味で心のそこから先生と呼べる
唯一の方だと思っている。
僕は若いときに八王源先生に、こう教えられた
「人の前をふんぞり返って通るようなことではあかんよ。
人の前を通るときには口には出さなくでもいいから
心の中で『ごめんなさい』と言って通りなさい」と。
その教えを僕は長年にわたってかなり忠実に守ってきたつもりだ。
でも、そうすることで自分が失ったこともあるような気も自分の中に
あることも事実なのだ。
そして八王源先生に出会うことで自分の中に呼び覚まされた宗教的直観力が
世間的な意味での自分の成功というものに対する阻害要因になってきたように思えることもある。
信仰というものは本当に奥が深いもので
決して一朝一夕に語れるものではないのだとしみじみと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神様、今日も一日お守りくださいましてありがとうございました。
八王源先生、観音様、いつもその名を念じて心よりおすがりしています。
どうぞいつも私とともにいらして私と私にまつわるすべての事柄を
お守りください。
すべては全知、全能、全愛、見抜き見通しにまします親神様に
お守りいただいているという前提の下に
あらゆる恐れ、不安、疑い、迷い、邪念、罪、嫌な思い、余計な思い、煩悩を祓い清め
すべて神様にお任せして素直で前向きな心で落ち着いて精進できますように
お守りください。
“どうぞなるようになりますように”
夜のニュースでもやっていた。
菊池容疑者は「もう逃げなくてもよくなってホッとした」という意味のことを
語っておられたという。
ニュースの古館キャスターは
「今もオウム真理教の被害で苦しんでいる人たちのことを思うと
ホッとしたなんて本当によく言えるものだと感じます」
とおっしゃっていた。
確かに古館キャスターのおっしゃるとおりなのかも知れない。
しかし、僕は直感的に古館キャスターのおっしゃりかたも17年間も
逃亡生活を強いられた方にはあまりにもむごいおっしゃりかただと感じた。
僕は宗教というものにかなり影響を受けた人間なので
もちろんサリン事件は起きてはいけない事件だったとは思うけれど
それでもなおかつ宗教の被害にあった人に同情的になってしまうところがある。
菊池容疑者は今40歳だと報道されている。
そして17年間の逃亡生活。
計算すると23歳から40歳までの17年間、ある意味自分を消して生きなければならない人生
そして多かれ少なかれ何かにおびえて生きなければならない人生
そんな人生ってどうなんだろうとおもってしまう。
ほかにも僕が同情的に思ってしまう人がいる。
聖書をとても原理的な読み方で解釈し
それを日々NHKの集金人が家々を訪問するように
各家庭を訪問して解いて回る人たちのことだ。
大概の人は、玄関のベルを鳴らされて「聖書を読んだことがありますか」
などといわれたら「そんなもの興味ありません」とまともにはとりあわないだろうけれど
僕はなぜかそういう人たちの話を特に急ぎの用事がない限り最後まで丁寧に聴いてしまう。
そして思う。あの人たちの聖書の読み方はいかれている。
洗脳されてしまっていると。
ひるがえって自分のことも考えてしまう。
僕はまだ小学生のときに八王源大師と名乗るおじいさんに出会って
その人にすっかり魅せられってしまった。
今でも八王源先生が僕が本当の意味で心のそこから先生と呼べる
唯一の方だと思っている。
僕は若いときに八王源先生に、こう教えられた
「人の前をふんぞり返って通るようなことではあかんよ。
人の前を通るときには口には出さなくでもいいから
心の中で『ごめんなさい』と言って通りなさい」と。
その教えを僕は長年にわたってかなり忠実に守ってきたつもりだ。
でも、そうすることで自分が失ったこともあるような気も自分の中に
あることも事実なのだ。
そして八王源先生に出会うことで自分の中に呼び覚まされた宗教的直観力が
世間的な意味での自分の成功というものに対する阻害要因になってきたように思えることもある。
信仰というものは本当に奥が深いもので
決して一朝一夕に語れるものではないのだとしみじみと思う。
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神様、今日も一日お守りくださいましてありがとうございました。
八王源先生、観音様、いつもその名を念じて心よりおすがりしています。
どうぞいつも私とともにいらして私と私にまつわるすべての事柄を
お守りください。
すべては全知、全能、全愛、見抜き見通しにまします親神様に
お守りいただいているという前提の下に
あらゆる恐れ、不安、疑い、迷い、邪念、罪、嫌な思い、余計な思い、煩悩を祓い清め
すべて神様にお任せして素直で前向きな心で落ち着いて精進できますように
お守りください。
“どうぞなるようになりますように”
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