昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-1 キリシタン大名「大村純忠」終焉の居館跡

2012年11月25日 | 九州の旅
2012年9月11日から5日間の長崎旅行1日目です。

早朝、福山市を出発して長崎自動車道大村インターからすぐ近くの「大村純忠史跡公園」へ到着したのは9時過ぎでした。

長崎旅行1日目は、午前中に大村市、諫早市、午後から島原市の観光です。

今回の長崎旅行は、南の島原半島南端から、北の平戸島、更に橋で結ばれた生月島まで県内をでほぼ一周する5日間の素敵な想い出が残る旅行になりました。



「大村純忠終焉の居館跡」の駐車場です。

左手の国道444号と、後方に見える長崎自動車道の高架が交差した場所にありました。

右手の道を進み、長崎自動車道の高架をくぐるとキリシタン大名「大村純忠[すみただ]」(1533~1587年)終焉の居館跡「大村純忠史跡公園」です。



「大村純忠史跡公園」付近の地図です。

右の地図Aは、大村湾東岸の大村市を赤い丸印で表示したものです。

左上の地図Cは、「大村純忠史跡公園」付近の拡大地図で、国道444号と、長崎自動車道が交差した横の公園を黄色で表示しています。

左下の地図Bは、大村市街の地図で、「大村純忠終焉の居館跡」、「大村純忠」の居城「三城城跡」、純忠の長男「喜前[よしあき]」(1569~1616年)が築城し、明治維新の廃藩まで大村氏の居城としていた「玖島城跡」の場所を表示しています。

「大村純忠終焉の居館跡」が居城だった「三城城跡」から約3Kmも離れており、政務から遠ざかった隠居生活だったことが窺えます。



長崎自動車道の高架下を進むと「大村純忠史跡公園」の門が見えてきました。

上段の地図Cで、駐車場から進んだ右の矢印の場所です。

晩年の純忠は、勢力を強めた隣国佐賀の戦国大名「龍造寺隆信」に服従を強いられ、3人の息子を人質に差し出していましたが、龍造寺と島津・有馬の連合軍が激突した島原の沖田畷の戦い(1584年)で、隆信が首を取られ、領主に返り咲くことが出来たようです。

1586年(天正14)、大村純忠は、龍造寺から無事帰還した長男喜前に家督を譲り、隠居した2年後に54歳の若さで亡くなったとされ、隠居の直接的な理由は、死因となった肺結核の苦しみによるものと思われます。

■現地の案内板より
******************************************************************************
市指定史跡 大村純忠終焉の居館跡
ここは、日本景初のキリシタン大名大村純忠が晩年を過ごした舘の跡です。古くから堀口館と呼ばれてきました。
南蛮貿易のため、長崎開港や天正遣欧少年使節の派遣など多くの歴史的偉業を行ってきた純忠ですが、佐賀の戦国大名龍造寺隆信の圧迫により、領主の座を退き、居城三城城より重臣庄頼甫の屋敷であったこの地に隠居しました。純忠はこの屋敷で約2年間過ごし、天正15年(1587)54歳で亡くなりました。
現在、この奥には庭園の跡と害われる泉水が残っており、市の史跡に指定されています。この泉水は「舘の川[たちのかわ]」と呼ばれ、どんな干ばつでも水が枯れなかったと伝えられています。ここは、純忠が晩年を過ごした貴重な場所として保存し、公園として整備されました。
******************************************************************************



「大村純忠史跡公園」の門をくぐり、公園内から振り返った風景です。

公園内には建物跡を示す物もなく、塀で囲まれた敷地の中は、史跡を実感するものは見当たりませんでした。

公園の敷地は、門の向こうの長崎自動車道に隣接しており、道路工事に伴う発掘調査が行われ、屋敷の一部は道路の下に埋められたようです。

案内板に「この泉水を中心とした地」とあるのはよく確認できませんでしたが、敷地南側の石塀の外に小さな流れがあった辺りと思われます。

■現地の案内板より
******************************************************************************
遺跡 坂口舘跡
この泉水を中心とした地は、大村純忠が晩年を過こした舘と伝えられる場所です。高速道路建設や公園設置の前に行われに発掘調査で、この広場から高速道路下までに、何世紀にもまたがる多くの建物の跡や当時使っていた陶磁器なとの品物が発見されました。宣教師ルセナの記録によれば、「純忠の屋敷は大きく、わら葺きであった」と言われています。大きな建物は高速道路下て見つかりましたが、いくつもの建物跡が重なり合っているため、純忠の屋敷の形や大きさははっきりわかりませんでした。出土した品物の中には、16世紀から17世紀前半にかけての中国や東南アシアの焼き物も出土しており、当時の生活がしのばれます。
******************************************************************************



敷地南側に石塀が続き、案内板が並んでいました。

野面積みのこの石塀は、発掘調査による再現だったのでしょうか。



戦国時代の佐賀・長崎地方の地図で、戦国大名の勢力図と、南蛮船の寄港地が描かれています。

南蛮船の寄港地は、「平戸」、「横瀬浦」、「福田」、「長崎」と変遷したとされ、「茂木」は寄港地ではなかったものの長崎、浦上と共にイエズス会へ寄進された土地だったようです。

寄港地は、松浦氏の「平戸」を除き、大村純忠の領地だったようで、初のキリシタン大名「純忠」と「イエズス会」の結びつきの強さが感じられます。

■現地の案内板より
******************************************************************************
大村純忠[おおむらすみただ](1533年~1587年)
戦国時代の大村領主。島原の有馬家から養子として大村家に迎えられ、大村家を継ぎ領主となりました。周辺の戦国大名である佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏などと争い、大村湾を取り巻く領土を確立していきます。特に後藤貴明は、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家へ養子に出されたため、終生、純忠に対して敵意を持ちました。
純忠は、貿易港として横瀬浦、福田、そして長崎を開港して南蛮貿易を行い、また、キリスト教を受け入れ、日本書初のキリシタン大名となり、日本初のヨーロッパ公式訪問団である天正遣欧少年使節派遣など歴史に残る多くの事業を行いました。純忠はこの地で亡くなり、三城城下の宝生寺に埋葬されましたが、その後改装され、本経寺に埋葬されたと伝えられますが、墓は不明となっています。
******************************************************************************



案内板に「南蛮屏風」(狩野内膳筆)の一部、南蛮船の部分が無彩色で描かれていました。

大村純忠の時代の南蛮船寄港地を時代順にまとめてみました。
 1543年(天文12)南蛮船が種子島に漂着
 1550年(天文19)平戸(松浦領)に初めて南蛮船が入港
 1562年(永禄5)横瀬浦(大村領)を開港
 1564年(永禄7)8月 横瀬が襲撃される
 1565年(永禄8)福田(大村領)を開港
 1571年(元亀2)長崎港(大村領)を開港

■現地の案内板より
******************************************************************************
大村純忠と南蛮貿易
1.南蛮船の入港
戦国時代の末期、日本へ南蛮人(ポルトガル人)が来航し、南蛮貿易が始まります。南蛮船は、最初平戸に来航していましたが、平戸領主松浦氏と不和となったポルトガル人は、新たな港を探し、大村領内の横瀬浦に目をつけました。領主大村純忠は、ポルトガル人の希望を受け入れ、キリスト教布教の許可を出したため、彼らはここを港と定め、横瀬浦で南蛮貿易が始まりました。

2.長崎開港
開港された横瀬浦は、武雄の後藤貴明に襲われて、炎上、わずか一年で役目を終えてしまいます。ポルトガル人は、新たな湾を探し、キリスト教に寛容な大村領での貿易を望み、福田に来航、さらに良港を求め、長崎を探し当てました。元亀2年(1571)純忠は長崎を港として聞き、以後、南蛮貿易の拠点となりました。この後、長崎と茂木は純忠によつて教会(イエスス会)へ寄進されますか、これには貿易の定着と周辺の大名からの安全などの狙いがあつたといわれています。
******************************************************************************



これも案内板にあった「南蛮屏風」(狩野内膳筆)の一部で、珍しい服装の南蛮人で賑わう港の風景です。

「南蛮屏風」は、神戸市立博物館のサイトで屏風全体の画像を見ることができます。
(神戸市立博物館 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin/046.html)

■現地の案内板より
******************************************************************************
3.南蛮渡来の品々
南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心でしたが、貿易品だけでなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本の文化に大きな影響を残しました。また、伝わった南蛮文化と日本の文化が合わさって南蛮漆器などの工芸品が作られ、海外に輔出されるものもありました。

4.天領長崎へ
豊臣秀吉が九州を平定すると、教会へ寄進されていた貿易港長崎は、秀吉により取り上けられてしまいます。続く徳川幕府でも長崎は幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。
その後.鎖国を迎え、長崎は唯一西洋との窓口して栄えますが、その基礎を築いたのが、大村純忠による長崎開港でした。
******************************************************************************



案内板にあった「天正遣欧少年使節」の4少年の肖像画です。

「天正遣欧少年使節」は、布教を進めるイエズス会により企画され、九州のキリシタン大名の名代で、ローマ教皇のもとへ派遣された使節です。

「長崎県の歴史」(小川出版)に使節派遣の目的と、4人の少年が書かれていました。
******************************************************************************
<派遣の目的>
(1)ヨーロッパの世俗世界とキリスト教会の偉大さと壮大さを彼らを通じて日本人に知らしめる。彼らはいわば語り部であった。
(2)口ーマ教皇に新布教地日本を紹介してキリシタン大名の名において帰服を表明させる。
(3)新布教地でのイエズス会の成果をセミナリオ教育で養成された少年を通じて誇示する。
(4)以上のような成果をもってローマ教皇とポルトガル国王から財政援助を獲得することであった。
<少年使節>
正使:伊東マンショ(大友宗麟の名代)
正使:千々石ミゲル(有馬晴信・大村純忠の名代)
副使:中浦ジュリアン(大村領中浦の領主中浦甚五郎の子)
副使:原マルティノ(大村領波佐見の領主原中務の子)
******************************************************************************

使節の少年たちは、1580年(天正8)、有馬に設置された修道士育成の初等教育機関「セミナリヨ」に学ぶ12~3歳の者からで、約2年後の派遣となったようです。

年齢的に大人へ成長する時期の8年5ヶ月の大旅行で、フロイスの記録では4人の親兄弟の多くが再会した時、顔を識別出来なかったエピソードが語られています。

■現地の案内板より
******************************************************************************
大村とキリスト教
1.日本最初のキリシタン大名
宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた12年後、大村領では、領主大村純忠によリキリスト教布教の許可が出され、また、純忠自身も領内横瀬浦でキリスト教の洗礼を受け、日本最初のキリシタシ大名となりました。洗礼名をドン・バルトロメウといい、ヨーロッパでもキリシタン大名として広く知られました。領主の改宗により、大村領内にはキリスト教が広がっていきました。

2.領内すべてキリスト教へ
キリシタンとなった純忠は、家臣領民に対してキリスト教への改宗をすすめ、領内ではキリシタンにより神社仏閣が破壊され、キリスト教一色になっました。居城三城城下にあつた宝生寺は教会に転用され、南蛮貿易港であった長崎、そして茂木を教会に寄進するなと、純忠はキリスト教との関係を深めていきました。宣教師フロイスによると当時の信者は6万人を数えたと記録されています。
******************************************************************************



「大村純忠史跡公園」の中にある小さな茅葺屋根の建物です。

二面に壁があるだけの開放的な建物で、休憩施設のようです。

向うの石塀に小さな門が造られ、水の流れる林へ道が続いていました。



茅葺屋根の建物の前から公園内の北を見た風景です。

何となく見た三角屋根の建物は、何だったのでしょうか。

大村純忠の資料にフロイスの日本史がよく引用されており、今回読む機会を得ました。

激動の戦国時代、幾度も絶体絶命の窮地にたち、その都度生き延びてきた純忠の様子がありありと伝わってきて、約450年の隔たりを忘れてしまうようでした。

小国の領主だった大村氏が奇跡的にも幕末まで続いたのは、粘り強く生きた純忠のDNAだったのかも知れません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。