昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

南九州旅行No.26 日南市油津「堀川運河」の散策

2012年10月10日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市飫肥城下町の町並みを見物の次は、酒谷川沿いの国道222号を走り、太平洋に面した油津港へ向いました。

日南市油津の「天福球場」では毎年春には広島カープのキャンプが行われ、キャンプシーズンには期待を膨らませているのですが・・・。

油津の町は、カープの選手もなじみがあると思い、ちょっと立ち寄ってみました。



最初に訪れた「堀川資料館」で頂いた案内地図です。

「堀川資料館」の向かいに小さな観光駐車場があり、ここを起点として散策しました。

「天福球場」の北にはJR九州の「油津駅」があり、宮崎市から鹿児島県東南端の志布志市を結ぶ日南線のほぼ中間に位置するようです。

「堀川資料館」で「あぶらつ散策 ウォーキングガイド」というパンフレットを頂き、読んでみると、興味深い歴史があることを知りました。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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堀川運河
「堀川」は飫肥伊東藩第5代藩主祐実の命により、天和3年(1683)から2年4カ月をかけ難工事の末完成された。その主な目的は藩の一大収入である木材を川流しの方法で広渡川から直接堀川運河に入れ込み「油津港」へ出すためであった。その結果木材を安全にしかも安く港へ出せるようになり、それらは上方などへ移出され藩の財政を大いに潤した。この運河は全長約1km、両岸を石組し、水門、石段、スロープ等を設け、船倉堀や三角、四角堀(タンポ)も築いて「油津港」の補助港の役目を果たした。そのゆったりと蛇行する姿は三百石余年の歴史を秘めて人々に長い間多大な恩恵を与えた。
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「堀川運河」周辺の地形図です。

広瀬川河口のすぐ上流の「広渡川石堰堤[ひろとがわいしえんてい]」から「油津港」へ向けて「堀川運河」が開削された地形がみられます。

かつて広渡川河口から太平洋を南下して油津港へ向かっていた飫肥杉の水運が、堀川運河によって大きく改善されたことが分かります。

■「堀川資料館」の展示パネルより
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堀川運河を眺めてみよう!
 堀川運河は、飫肥杉を広渡川から油津港まで運搬するために江戸時代に開削されました。当時は、飫肥杉を運ぶために、一度広渡川から海に出て大節鼻を回って油津港まで運ばなければならず、天候に左右される危険なものでした。そのため、広渡川河口から油津港までの約900mが、開削されました。特に、吾平津神社周辺は硬い岩盤のため、工事が難航をきわめ人柱をたてたと伝えられています。
 堀川運河の完成により、木材の積み出しが飛躍的に向上し、造船材として飫肥杉が大きな需要を生み、鉄肥藩に莫大な利益をもたらしました。明治期になると商業の中心地として、堀川運河周辺は繁栄しました。
また、昭和の初期には、「マグロ景気」にわきました。
そんな、堀川運河周辺の歴史が、これらの資料には詰まっています。
 これらの貴重な資料は、「堀川運河 埋蔵文化財発掘調査報告書 CD」の中のデジタル資料です。掲示資料の作成は、宮崎県埋蔵文化財センターと日南市教育委員会の協力で行っています。
 ぜひ、この機会に堀川運河とその周辺の歴史に目を向け、当時の人々の生活に思いをめぐらせてみてください。
  平成20年4月 宮崎県立図書館
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写真左は、パンフレットに掲載されていた「堀川資料館」の二階建ての建物で、後方は「堀川運河」に面しています。

右の写真は、「堀川資料館」2階の風景で、部屋の右側には油津港の町並みの大きな模型、周囲の壁には映画「男はつらいよ」の寅さんシリーズの全ポスターや、昭和の堀川運河の風景写真などが展示されていました。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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堀川資料館
堀川沿いに地元の飫肥杉を使って建てられている。館内には、各種観光パンフレットがあり、二階には堀川橋周辺で撮影された映画「男はつらいよ~寅次郎の青春」の写真や出演者のサイン、シリーズポスター等が展示されている。
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「堀川資料館」の2階に展示されていた寅さんのポスターや、ロケ風景の写真です。

当地が舞台となった作品は、「男はつらいよ 第45作 寅次郎の青春」で、1992年(平成4)12月26日に封切られています。

ロケ風景の写真には飫肥城や、堀川運河周辺で撮られた在りし日の渥美清さんのなつかしい姿が見られます。



「堀川資料館」の2階テラスから「堀川運河」の南側を見下ろした風景です。

「堀川運河」には明治の情緒を漂わせる石橋「堀川橋」が架かり、西岸には「吾平津神社」の鳥居が見えます。

上記の展示パネルによると、運河の開削工事で「吾平津神社周辺は硬い岩盤のため、工事が難航をきわめ人柱をたてたと伝えられています」とあるのはこの辺りだったようです。

恒久的な石橋「堀川橋」が架けられたのは、「堀川運河」が開削された1686年(貞享3)から200年以上経った1903年(明治36)で、飫肥杉で造られていたと考えられるかつての橋が消えて、油津が新たな時代に踏み出す時期だったのかも知れません。

この運河に飫肥杉の筏が浮かび、運河沿いの町並みが活気にあふれていた時代を彷彿とします。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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堀川橋
別名「乙姫橋」ともいう。明治の中頃までは「油津板橋」といわれ風波に弱い橋であつた。ひとたび破壊されると「堀川」によって切り離された旧油津はあたかも陸の孤島となった。そのため永久橋が懇望され、明治32年、名石工石井文吉が石橋に着手し、明治36年8月ようやく完成した。平成4年には、渥美清主演の映画寅さんシリーズ「男はつらいよ青春編」がこの堀川橋を中心に撮影された。
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「堀川資料館」の2階テラスから「堀川運河」の北側を見下ろした風景です。

向こうに見える橋は「油津大橋」で、内陸の都城市へ至る国道222号が橋の東岸を起点としています。

「油津大橋」の西岸に小型船が係留されていますが、冒頭の案内地図に「チョロ船係留所」と記載した場所です。

遠くでよく見えませんでしたが係留されている数隻の船の中にチョロ船があったのでしようか。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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油津チョロ船
昭和40年頃までシピ、マピキ、カジキマグロ漁などで活躍していた木造帆走船。
飫肥杉が使つてあり船の長さは8m、幅約2.4mあり、大小2本のマストが特徴。現在復元され、まつりの時などには体験試乗ができる。
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「堀川資料館」を出て「堀川橋」の西岸を見た風景です。

正面には「吾平津[あびらつ]神社」の鳥居が建ち、向かって左手の四つの窓がある家は「男はつらいよ 寅次郎の青春」で、マドンナ役の蝶子(風吹ジュン)の理容店だったように思われます。



「吾平津[あびらつ]神社」参道口です。

鳥居の脇に立つ銅像は、神武天皇の后「吾平津媛[アヒラツヒメ]」で、神武天皇の東征に同行されず、この地に残られたとされています。

神武天皇との間に生まれた「手研耳命[たぎしみみのみこと]」は、神武天皇の崩御の後、神渟名川耳尊[かむぬなかわみみのみこと](綏靖天皇)との皇位争いに敗れて悲惨な最期を遂げたとされます。

合掌する「吾平津媛」の銅像は、神武天皇の無事を祈り、東征を見送る姿とも思われますが、悲惨な最期を遂げた息子「手研耳命」を悼む姿にも見えてきます。

南九州には神武天皇東征に関わる伝説が各地に残り、次第に史実だったように思えてきました。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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吾平津神社
和銅2年(709)元明天皇御代に創建されたと伝えられている。元は乙姫大日月神だったが、合祀し平野神社と称した。その後現在の名称に改められた。通称で乙姫神社ともいう。
吾平津神社の御祭神・アヒラツヒメは、吾田(アタ)の小椅(オバシ)の君の娘として生まれ、十五歳で皇太子となったカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)と結婚し、子供(手研耳命(タギシミミノミコ卜))にも恵まれ、幸せな暮らしを送つていた。やがてカムヤマトイワレヒコは、よりよく国を治めるために、兄等と相談され、日向の美々津から東に向けて旅立つが、吾平津媛は同行されず、この地よりその成功をお祈りしたという。
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堀川運河の東岸から南に見えた風景です。

向こうに見える国道220号の「港大橋」をくぐると油津港です。

人気のない町でしたが、どこか心和らぐ町並みでした。



堀川運河沿いの道から路地を東に折れると「油津赤レンガ館」が見えてきました。

写真左下は、パンフレットに掲載されていた「油津赤レンガ館」の正面の風景です。

河野家の倉庫として建てられたとありますが、当時どんな物を保管し、油津の繁栄とどう関わっていたのか知りたいものです。

■現地にあった文化庁登録文化財の案内板です
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油津赤レンガ館
大正10年頃に河野家の倉庫として建てられたみのである。レンガ造瓦葺3階建てで約22万個のレンガを使用している。中央通路部分はアーチ型をしており、大正時代の面影をそのまま伝えている。面積132.23㎡。
 (所有者 日南市)
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■パンフレット「あぶらつ散策」より
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油津赤レンガ館
大正11年頃建てられた倉庫。レンガ造りで中央にアーチ型の通路がある。平成9年に市民出資の「合名会社油津赤レンガ館」が買い取り、平成16年に市に寄贈された。平成22年3月に耐震改修工事と一部増築工事が完了し、油津のにぎわい拠点としはて活用されている。
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油津の美しい観光スポットの写真が展示された「油津赤レンガ館」の内部の風景です。

黒いはすかいは、大正時代のレンガ造りの建物に耐震補強工事を施したようです。

耐震補強なしで約90年持ち堪えてきたのは幸運だったのかも知れません。

特別興味を引く展示もなく、建物内部を一周して帰りました。



通りの左手は「杉村金物本店」の建物、右手は「油津赤レンガ館」です。

赤レンガの建物が向かい合い、その先に古い「杉村金物本店」の店舗が続いています。

案内パンフレットにはまだ古い建物などが紹介されていましたが、予定時刻を過ぎ油津を後にしました。

江戸時代初期の「堀川運河」の開削と、飫肥杉による繁栄の歴史や、神武天皇の東征を見送る「吾平津媛」の伝承など興味深い町でした。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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杉村金物本店
春日地区から油津港へ向かう国道沿いにある。明治より続いている商家「杉村金物本店」の店舗兼住宅として昭和7年建築された。木造3階建ての外装は銅板張り、窓は洋風のシャレたデザイン、アンティークな雰囲気を持つ建物である。今も昔風の金看板をかかげ現役の店舗として利用されている。
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