爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

11年目の縦軸 27歳-2

2013年11月17日 | 11年目の縦軸
27歳-2

 何回か請求書を渡した。仕事の提案もした。彼女は社内で掛け合うということを言ったが、それ以上、発展もなかった。仕事でも、仕事を離れた間でも。

 ぼくは美を見つけたと思っていたが、交際をしてこれからの生活で横にいるのが彼女であることを望みながらも、絶対に彼女でなければダメだという確信もなかった。だが、当然のこと横にいた方が自分の生活がカラフルになることは知っていた。しかし、月に一度だけ会うという関係ではなかなか進展もない。もっと奇跡的ななにかが起こらなければならない。それにしても、そんな奇跡的ななにかなど普段の生活ではあまり訪れてはくれなかった。

 そんな時、経営のセミナーが行われることになった。大して役に立たないと思いながらも、上司の「行って来れば、繁忙期でもないことだし」という簡単なひとことによってぼくの名前で申し込まれてしまった。ぼくは朝から日常の通勤範囲とは別のところに向かう快適さを感じ、知らない大きな会議室のようなところに座っていた。気持ちも入っていないので睡魔と戦うことが大きな使命でもあった。他の後ろ姿を見ても、同じような戦いに挑んでいるひともいれば、完全に負けているひとも数人いた。昼の休憩を挟み、午後の部に入ったらその人数も増えていた。

 午前には気付かなかったが、ぼくはある女性の後方からの映像に目を留める。髪型や多少のあごのラインが分かる。渡辺さんにとても似ているとぼくの脳は判断したが、渡辺さん以外ではないという確証も同時にあった。そこから休憩を挟むこともなかったので、彼女に声をかけるタイミングもない。彼女は姿勢よく聞いていたが、ときどき、身体や首を左右に揺らしたときに、彼女特有の立体感がぼくの心臓を高鳴らせた。

「こんにちは、渡辺さんも来ていたんですね」とぼくは言う。
「あ、びっくりした。国代さんも?」そう言って、彼女はほんとうに驚きの表情の見本のような顔になった。目を丸くする。口が楕円になる。

 時刻は三時四十五分。中途半端な時間だ。ぼくは今日は職場に行かないと告げていた。渡辺さんはどうか分からない。だから、訊いた。

「渡辺さん、これから職場に戻るんですか?」訊きながらチャンスの気持ちを隠すように腕時計を見た。
「まさか。今日は予定はない。国代さんも?」
「ぼくも帰らないです。疲れたな、どこかでお茶でも飲んでいきます?」
「いいですね」

 それから、混んだエレベーターを何回か見送り、一階に着いた。外は晴れている。新鮮な外気を吸うのは久し振りのような気がしていた。それに前を向いて歩いているのでぼくが話しかけると彼女の特徴的な横顔が目に入る。思いがけなくぼくは幸運に恵まれたのだ。

 彼女は岐阜の出身であるらしかった。そこからぼくが想像できるものはそれほど多くなかった。昔の民家の屋根のことをもちだしたが、それが富山のものでもあるのかもしれないかという疑問もあった。彼女はていねいに説明してくれる。時おり、質問の意図が分からないと困ったような表情になり、眉間に細い筋が入った。最初に仕事以外のことを話す機会でもあったので、多くは疑問と質問で会話は構成されており、その彼女の魅力につながる表情を見るのも増えていった。

 話すことは尽きず、いつまでもお茶の時間でもないので、裏の路地にあった居酒屋にぼくらは場所を移した。お腹も空き、緊張からの解放の所為か、いつになく酔いが回るのも早かった。ぼくは知れば知るほど、彼女のことを好きになっていくことだけは予感できていた。彼女も同じような気持ちを幾分かでも持っていてくれるなら嬉しいなという期待もあった。いきなり交際相手がいまはいるのか訊くこともできなかった。今後、月に一回という少ないペースだが仕事の相手として会いつづける必要も生じるため、あまり愚かな関係性も作りたくなかった。ただ、話がおもしろく、ある程度はまじめで、頼りになってという些細な好印象を残せればいい。しかし、彼女がどういうことに関心があり、何が苦手で、何を敬遠させるのかなども一回の出会いですべてを掌握できるわけにもいかない。それでも、彼女を数回笑わせることもでき、この場を和やかな場面にすることはできた。

 ぼくらは店を出る。八時を少しまわったところだ。かれこれ四時間ぐらいいっしょに過ごしたことになった。ぼくには楽しさがもたらした将来への未知なる信頼に包まれ、その将来を刻むかのようにコツコツと彼女のかかとが地面に接する音をきいていた。その音はぼくの心臓にも響く。心拍音とも重なる。

 間もなく駅に着いた。ぼくは階段を登り、彼女は地下鉄の駅に向かうことになった。「繁忙期でもないから」と言った上司の顔を思い出して感謝を伝えたくなった。繁忙期でもないが、ぼくのこころは慌しかった。彼女は多少、紅い顔をしている。この不思議な邂逅をぼくは一時の思い出になってしまうことへの淋しさがあった。幸運によりかかり、それが奪い取られてしなうことがないよう、未練をはらませた。

「また、仕事以外でも会えるといいですね」と彼女は最後に口にした。

 社交辞令以外の何物でもない言葉かもしれない。しかし、それ以上のものにするのか否かは自分次第でもあった。ぼくは手を振り、彼女は両手でバッグを前に握り、小さく会釈をした。正面の彼女。横顔の彼女。彼女は階段をくだっていく。直ぐにスーツ姿の男性が彼女を隠してしまった。すると、彼女のことを思い出すのは段々とむずかしくなるような錯覚だけが残っていた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿