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壊れゆくブレイン(108)

2012年08月27日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(108)

 ぼくは特急電車に乗り、地元に戻っている途中だ。東京で会うべきひとに会えず、今後、もう会うこともなくなった。寂寥という言葉をぼくははじめて実感している。そういう言葉があったことすら知らなかったようだ。トンネルを抜けるたびに、ぼくは我が家へ近付いている訳だが、普段と違って見慣れた景色の到来にもこころは晴れず、重苦しいままだった。

 ぼくが、そのような過去の人間関係をつづけていることを雪代は知らなかった。秘密というものではない。ただ、伝える必要性を感じてこなかった。それぞれ、数十年も生きていれば、簡単に断ち切れない関係のひとつやふたつはあるのかもしれない。ぼくのもそのひとつだった。だが、もうそれを秘密にすることも終わった。もう関係そのものが終わったのだ。

「広美に会ったの?」雪代は、いつものように出迎える。ぼくは裕紀が死んだときに、このひととの関係で救われ、立ち直ったのだとあらためて知った。
「うん、会ったよ。瑠美ちゃんもいつものようにいた」
「あの子たち、仲が良いのね。喧嘩、しないのかしら? いつもいるのに」
「やっぱり、どこかでするんだろう」
「そうだよね。お腹空いてる?」

「空いてるけど、東京で、これ、買ってきたよ」ぼくは包みの袋を雪代に渡す。
「ご飯があるから、これでいいか。佃煮っていっぱい種類があるんだね。あと、適当にサラダでも作る」ぼくは、裕紀の叔母に会いにいったときに渡しそびれたものをそこで見る。叔父が好物で、見舞いには相応しくないが、なぜだか、それを買っていた。そして、ここまで受け取るひともいないため持って来てしまっていた。

 ぼくは冷蔵庫を開け、ビールの缶を開ける。
「疲れた?」
「いつも通りだよ。終わらない会議。やらなければならない仕事」ひとの死をとめられない自分。正直さを見失った自分。
「広美とはなにを食べたの?」
「パスタとかピザとか、若い子が好きそうなもの」雪代は笑う。
「なんか年寄りみたいな口調」
「ビールに佃煮、これこそがぼくの食べたいもの」ぼくは箸でそれを口に運ぶ。起伏がないことをいまの自分はのぞんでいた。なにも事件がおこらず、日々の生活は脅かされない。ぼくはその簡単に思えることを、このテーブルを前にする雪代を見ながら考えていた。崩れる積み木。虫に喰われた衣服。

「広美には、男友達がいるみたい?」
「さあ、どうなんだろう。心配なの?」
「まゆみちゃんは悪い子じゃなかったけど。わたし、いまでも大好きなんだけどね。でも、ああいうのも親の立場になると辛いから」

 突然の妊娠。それは、突然の死と比べてどれほどの悲劇であるか、ぼくは考える。どちらも歓迎されないのだろうか。誰かをひとり産み出し、誰かをひとりこの世から抹殺する。ぼくは、きょうは厭世的すぎ、正しい判断ができるような状態でもなかった。
 
 あまりご飯も喉を通らず、ビールだけをだらだらと飲んだ。それから、シャワーを浴びた。ぼくは勢いの強いお湯を浴びながら、数々のむかしの出来事を思い出し、そこで涙も流していたようだった。ぼくと裕紀は幸せな結婚生活を送っていた。ぼくを回顧するフィルムでもあれば、そこに多くの時間を割き、たくさんのエピソードが語られるのだろう。だが、友人は多く語ってくれても、裕紀の親類のエピソードはそれほどない。彼女の兄はぼくを毛嫌いした。交際していた若い妹を簡単に切り捨てた男として認識し、留学先をたずねた両親を事故に遭わすきっかけをつくった張本人として。裕紀の叔母はなぜ裕紀だけではなく、このぼくでさえも素直に認めてくれたのだろう。美緒という少女が急に出現し、彼女が遠くからぼくらの和解のきっかけの種をもってきたと思ったら、自分の役は終わったとでもいうように裕紀の叔母はこの世を去った。ぼくは、いつでも彼女の無償の潔さみたいなものを感じていた。ぼくは、その恩恵だけをもらい、なにも彼女に返すことができなかった。その意味での涙がぼくから溢れ出て、こぼれたのだろう。

「泣いてたの?」ぼくが、シャワーから出ると、雪代が訊ねた。「いいよ、隠さないでも。もう、どれぐらい、ひろし君と付き合ったと思ってるの?」
「いろいろあるからね」
「もう少し、強いお酒飲む?」言い終わらぬうちに雪代はワインのコルクを開けた。「どうぞ」テーブルの上で雪代はグラスの足元をぼく側に押した。ぼくはそれを手に取り、グラスを空けた。

「広美は、島本さんの顔を覚えてるのかね? なんか楽しかった思い出をもっているのかな」
「あんまり、覚えていないんじゃない。あの子、小さかったから」
「覚えていてほしい?」
「とくには」
「それを伝えたいと思う?」
「訊かれれば。どうしたの?」
「みんな、いろいろなことを忘れちゃうんだなと思って、残念だなって」
「でも、仕方ないでしょう。偉くなって、伝記にでも書かれなければ、そのひとのことなんて伝承されない」
「雪代のことも、ぼくは忘れちゃうよ」

「忘れないでしょう。若いときのひろし君のことも充分すぎるほど好きになったし、別れたのに、こうしてまた結婚もしてる」この事実を抜いたら、一体、ぼくの何が残るという挑戦の言葉にも感じられた。実際、それを抜かしたら、ぼくのフィルムは、あまりにもドラマに欠け、脚本家を泣かせるだろう。しかし、ぼくは雪代のことを振り返って思い出したりはしない。なぜなら、それは未来にもつながるものとして認め、ぼくの過去といまとの連結部分にしっかりと組み込まれているからだ。蝶番をはずせないドア。向こうにもこちら側にも、だから雪代はいた。


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