爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 t

2014年08月28日 | 悪童の書
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 家のうらの塀を歩いている。別の家の敷地を何軒も通過し、行き止まりになる。

 そして、また戻ってくる。とがめられることも、注意されることもない。あの自分の足の幅ぐらいしかない塀を落ちもせずに、縦横に歩き回った。ときにはターザンのような雄叫びをあげるマネをして。

 この幅はドブ河でも鍛えられていた。落下したときの不安などぼくらになかった。たまに紙芝居が来て、その前後に暇をつぶすため、ドブを横切る四角い棒を渡る。危険に満ちた平均台のように。あそこに落ちた子どもも皆無なので、あの地域で育った子どもたちの特技でもあるのだろう。当然、もうふたがある。あるいは名残りらしいものは跡形もなく、足腰の弱い高齢者でも歩けるふつうの舗装された歩道になっている。

 野蛮さと危険を克服したのが男の子である。しつけも系統だった訓練もなく、周りにいる兄と兄たちのような存在の背中がすべての見本だった。誰も跡取りではないし、約束のポストもない半ズボンの子たちである。その他大勢の意地。

 紙芝居も、いつしかアニメになり、手のひらのゲームになる。ヒーローの象徴もベルトを腰に巻く作業から、超合金というしっくりとした重さのおもちゃになる。そこにはあまり金銭というものは主張していなかった。

 ある日、塀の突き当りの向こうの一角に、おもちゃの残骸があることを発見する。子どもにとって宝の山だ。おもちゃ屋というきちんとした場所に、スポットライトを当てられて整然と並んでいるのではなく、無造作に置かれていた。大人の観点になれば産業として町工場のようなところで作られていたのだと理解できる。よくよく調べると完成品には少し足りないものがほとんどだった。正確にいえば、全部だった。しかし、この足りないものと足りないものを合わせると結果として一になった。数学の世界である。

 ぼくは近所の友人と連れ立って、また塀のうえを歩く。まだひとりでは戦利品としてもちかえるのには勇気がなかった。

 宝の山の上に寝転び、驚愕する。石油が噴出したなかを真っ黒になりながら喜ぶように、ぼくらはいくらか煤けた衣服で喝采した。取るべき行動は決まっており、選別したそのなかのきれいな二、三個を持ち帰る。

 だが、家に帰り部屋に並べると、歓喜がまったくなくなっているのに気付く。やはり、それは廃棄をまっている姿だったのだ。どこかで完成とは程遠い、色褪せたものとなった。大人は、お金になるものをそんなに簡単に見つかる場所に放って置いたりはしない。ある一定量になるまでそこに保管され、一気に廃物となり、それぞれの短い運命を終えるのだろう。ぼくらは、間もなく、塀にのぼって出歩くのを楽しいとは思わない年頃になる。近隣の工場が魅力ある風景ではないことも知ってしまう。

 場所を広げる。行動範囲が変わる。隣駅の商店街の存在を知る。

 プラモデルの在庫や、野球のグローブのそれ、区民プールの場所、評判のよい医者。それらは少しずつ離れた距離にある。東西南北の観念はなくても、あらゆるものが目印となった。世の中が無数の塀で分断されても、子どもの自由を奪うことは誰もできない。だが、友人は同じ学校に通う範囲にしかいない。母には節約という心掛けもあまりないらしく、隣町の洋品店で選び、その当時では変わった服装をぼくにさせてくれた。兄は、見栄えにこだわるには身体も足も大きくなり過ぎた。帰りには父のつまみのためにうなぎを買った。ぼくはその見た目に抵抗があった。そして、意味もなく似たような形状であるため、ナスの焼いたものも当時は箸を避けるようになる。どちらも、いまでは好きなのに。

 何の後悔もなく、自分の周囲にも引き出しにもおもちゃという類いのものがなくなっているのを知る。愛の対象はグローブになり、漫画になった。たくさん保有したはずの消しゴム製の人形や車はなくなっている。弟の箱にはまだまだある。夏になると、花火を手にして公園のなかで友人を追いかけて、その背中に向けて発射させた。あまりにも騒いだためか近隣の住人が注意しに来るが、今度はその正義の騎士に向かって火を向けた。激怒してさらに追いかけられるが、つかまることもなく逃げおおせる。怪我をしなかったことをいまになって祈るが、もう遅いのかもしれない。

 ぼくは自分なりのアメリカン・グラフティを書こうとしている。

 中学生になると、その公園で美術の時間に写生をすることになる。もちろん、言いつけを守ることなく近くのコンビニで時間を過ごして、こっぴどく叱られる運命を受け入れる。恋する相手と夜の時間を過ごすのもその公園である。兄は小山の頂上の時計台のようなものの壁にスプレーで何かを書き、大問題になった場所でもあった。この兄のため、相対的にぼくは静かでやんちゃをしない方という立場と役割を与えられつづけることになる。彼らの沸点はどこにあるのか、という教師や両親の怒りのボーダー・ラインを見極める結果も得られた。だが、おそらくそこまで達するのは、最初から困難だった。しかし、幼少時に遊園地の回転する乗り物に顔面蒼白になった彼を覚えてもいるので、ちょっとぼくはそこまで悪い人間だとも思えないことも、ほんのたまにだがある。乗り物の券のつづられたものをその前後に兄は失くし、父は文句も言わずに新しいものを購入してくれた。




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