朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

高岡蒼甫氏のツイッター発言に関して

2011年07月30日 | Weblog

ここのところ俳優の高岡蒼甫氏が韓流ブームに偏向しているとフジテレビを非難した件が話題にあがっている。このブログに直接関係あるわけでもないのだが、思うところもあるので個人的な見解とこのブログに対する考え方をこの辺で表明しておきたい。

まず、高岡氏のツイッターでの発言に関しては、もう少し表現の仕方がないのかと感じたものの、個人的な意見の表明として特別問題のあるものとは思えない。

高岡蒼甫 ツイッターで批判「8は今マジで見ない」

23日に「正直、お世話になった事も多々あるけど8は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば」などと記述。その後も同様の書き込みを続け、韓流ドラマなどを多く放送している同局の姿勢に苦言を呈した。

そもそも、平日の昼間に韓流ドラマを流し続けていることに違和感を覚える人は決して少なくないだろう。それがいいとか悪いとかという問題ではなく、テレビ局の姿勢として安直ではないかということ。同時間帯に日テレが(気合の入った)生の報道番組を放送している点と比較しても、自らは何も製作をせず放送権を購入しただけの作品を真昼間から放送するというのがキー局のあり方としてどうなのかというところだ。

(もっとも僕が「朱蒙」を知ったのは、フジが2007年夏に昼間の時間帯に地上波で放送していたのを観たのがきっかけなので、その点ではフジに感謝しているし、結局のところ面白いドラマは面白いということに尽きるのだが)

いずれにせよ、高岡氏の発言に同調する人もいれば気を悪くする人がいるのも事実なのだが、それにしてもよくわからないのは、一週間と経たずして彼が事務所を辞めざるを得ない状況に追い込まれたことである。事務所側がことを過剰に重く受け止めすぎたのか、あるいはフジから何らかの圧力があったのか。外側から真相はわからない。 しかし、政治家の発言ならともかく、一俳優のつぶやきでここまでの事態に巻き込まれるというのはいったいどういうことなのか。この国では下手に意見を言うことすらできなくなってしまうではないか。

何かひとつの発言や出来事に対し、メディアがあまりに過剰に反応してしまうという昨今の風潮。どうにもスッキリしないのだ。そういう考えの人もいるのね、ぐらいで流しておけば済む話ではないのだろうか。何が問題なのだろうか。まったくわからない。

この国には韓国と聞いただけですべてを毛嫌いする人たちもいる。同様に韓国には日本と聞いただけですべてを毛嫌いする人たちがいる。

しかし、それは個人の考え方や嗜好の問題であって、他人がどうこう言える話ではない。韓国が嫌いだという日本人に韓国を好きになれと強いることができないのと同様に、日本を毛嫌いする韓国の人に日本を好きになれと強制することはできない。

そもそも高岡氏の主張を読む限り、彼は韓国の文化そのものを批判・否定しているわけではない。問題としているのはあくまでも日本側の姿勢なのだ。同じく俳優の山本太郎氏がナイスなフォローをしていたが(「韓国のエンタメは魅力的だからこそ視聴率が取れる。日本の製作者に対して、そこに頼らず、もっと自分達で頑張って作って行きましょう!っ彼なりのメッセージと僕は受取りました。」)、まさにそういうことである。

あまりに安易な番組、安直なドラマを垂れ流す日本のテレビ局の方がよほど問題だ。アイドルの主力メンバーを中心に据えれば視聴率が取れるだろうという浅はかな考え。過去の漫画を実写化するばかりで新しい物語を作り出すことにチャレンジしない姿勢。

どうして「朱蒙」や「善徳女王」に匹敵するようなパワーあるドラマが日本では作り出せないのか。
日本のテレビ界には経済同様に閉塞しきった状況しか感じられないのだ。

このままでいいのか。何とかしなければならないのではないか。
いま、ありとあらゆる場面で考えなければならないことだ。

そういった危機感が高岡氏の発言の根底にあるのではないか。
表現の仕方がまずかったというなら、その部分のみを謝ればすむこと。

ちなみに韓流ドラマばかり放送していることに対してはフジ局内でも批判の声があがっているという。であれば、なおさらのこと、高岡氏が事務所を辞めるまでに追い込まれた状況がまったく理解できない。(以下、7月8日付けの記事より)

韓ドラぶっ続けのフジ局内から「まるで韓国のTV局だ」の声


陝父とはヒョッポのこと

2011年07月27日 | 朱蒙

陜父とは、ご存知ヒョッポのことである。

つまり、「桓檀古記」の記述は、朱蒙の家臣であったヒョッポが後に日本(倭国)に渡り、九州は阿蘇山に自ら国をたてて王となり、後には朝鮮半島に逆上陸して半島南部(任那)を併合したと言っているわけである。ビックリではないか。

日本の歴史学界ではまずまともに取りあげられることもないだろうこの話。果たして信憑性はあるのか。ことが2000年も前の話だけに、バカバカしいの一言で片付けられてしまいそうだが、個人的にはまったくない話でもないと思う。

朱蒙亡きあとのヒョッポについては、以前「風の国」を検証する その1のところでも言及しているのだが、ユリ王のもとで大輔(テボ)を務めていたものの、狩りに出て5日間も戻ってこなかったユリ王に小言を言ったところ、逆ギレしたユリ王に罷免され、結局高句麗を離れることになるわけである。(これは「三国史記」に実際に書かれている記述)

注目すべきは、高句麗を離れた際に南韓へ去っていたとの記述があることで、これは「桓檀古記」の記述にぴったりつながる。

もう一度、「桓檀古記」の冒頭を引用しておこう。

陝父は、南韓に奔走して、馬韓の山中に隠り住居する。将、革を知り、浿水(清川江)を下り、海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に居する。

ちなみに、この中に出てくる「狗邪韓国」は、邪馬台国への行程が問題となる「魏志倭人伝」の記述の中にも出てくる。
Wikipediaによれば「3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した倭国の領土」であり、「伽耶(かや)や加羅との関連性が指摘されている」ということらしい。現在の韓国で言うところの金海市がその候補地であり、金海市といえばかつての金官伽耶、つまりキム・ユシン一族の故郷でもあるわけだ。

ヒョッポが本当に日本にやってきたかどうかというのは確かめようもないが、かつて大陸から朝鮮半島を経て日本に稲作や鉄を持ち込んだ人々がいたことは、歴史上、紛れもない事実である。モパルモから鉄器の技術を学んだヒョッポが、もしかしたら日本に来たのかもしれないと想像することは、ドラマ「朱蒙」のファンにとってはなかなか愉快なものである。

さて、もう少しこの話を続けよう。
次は、朝鮮半島内に作られた分国の多羅韓国、つまり多羅国についてである。


日本にやってきた陜父とは?

2011年07月21日 | 朱蒙

最近になってようやくわかったことだが、ドラマ「善徳女王」の人物設定は「花郎世紀」をベースに作られたものらしい。

例えば、「三国史記」において「真平王の長女である」とハッキリ書いてあるトンマンがドラマでは(双子とはいえ)次女の扱いとなっている点や、「三国史記」でも「三国遺事」でも同一人物とされる龍樹(ヨンス)と龍春(ヨンチュン)が兄弟となっているところは「花郎世紀」の記述を踏まえているらしい。

また、花郎(ファラン)の多くは架空の人物かと思っていたが、意外と実在の人物が多いようだ。

「花郎世紀」は、現時点では日本語訳されたものは入手できないようだが、あちこちのサイトに参考となる資料が掲載されているので、Webで調べるだけでも意外と面白い事実が見つかる。

例えば、

  • 真平王とミシルの間には宝華(ポファ)という娘が生まれている(トンマンの異母姉妹だよな?)。この宝華の息子が善品といい、21代目の風月主(プンウォルチュ)となった人物だが、この善品の娘が文武王(チュンチュの息子)の王妃となっている。
  • 真興王(チヌン大帝)の王妃は思道(サド)夫人であるが、この二人の間には阿陽(アヤン)という娘が生まれており、阿陽と武力(ムリョク)の間に生まれたのが舒玄(ソヒョン)である・・・なぬ?じゃあソヒョンはチヌン大帝の孫ってこと???

 

ところで、以前にも言及したが、「花郎世紀」は一般には偽書とされているものである。
しかし、正史の記録が100%真実とは限らないのと同様に、偽書の記述が100%ウソを書き並べたものとも言い切れないのである。(そのあたり、このブログではニュートラルな姿勢でのぞみたいと考える)

さて、「花郎世紀」と同様、一般には偽書と認識されているが、朝鮮半島内では歴史の資料として活用されているらしい「桓檀古記」というものがある。

この「桓檀古記」の中には日本(倭国)に関係する驚くべき記述がある。
とりあえず、その部分を引用してみよう。



『桓檀古記』高句麗国本紀

陝父は、南韓に奔走して、馬韓の山中に隠り住居する。将、革を知り、浿水(清川江)を下り、海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に居する。転じて阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となった。後に任那を併せて連合国として治めた。そのうちの三国は海にあり、七国は陸に在る。

多婆羅国には、弁辰狗邪国人が先住して狗邪韓国といった。多婆羅国は多羅韓国ともいう。忽本より来たりて高句麗と早くから親交を結び、烈帝(広開土王)が制した。多羅国は安羅国と同隣して同姓である。旧熊襲城を有す。今、九州の熊本城がこれである。

さて、この陝父とはいかなる人物か?
このブログをご覧の方には簡単すぎる問題かもしれないが、とりあえず続きは次回で。


注目のツーショット

2011年07月19日 | Weblog

クムワ+ソヒョン(もしくはペグク)のツーショット。

製パン王 キム・タック
フジの韓流αで平日14時10分から放送中。

チョン・グァンリョル氏の演技は現代版のドラマでもあまり変わらない感じですな(悪い意味ではなく)。
ちなみに本日第4話のストーリーではムソン兄貴も登場。

影のある役の多いチョン・ソンモ氏は、まもなく始まるドラマ「階伯(ケベク」で、「允忠」役を演じるらしい。ドラマ「善徳女王」でも描かれた、百済の大耶城攻撃を率いた将軍である。


トンマンの生年を推理してみる

2011年07月09日 | 善徳女王

「三国史記」の記録において王の在位期間や没年は明確になっているが、その生年が不詳というケースはかなり多い。トンマンこと善徳女王の生年もハッキリとはわからないのである。

そこで、以下の仮定を前提にしてトンマンの生年を探ってみたい。

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現代では医療技術の発展により40歳超えても出産可能になってきたが、かつて安全に出産することができるのは30歳ぐらいまでと言われていた時代もあった。

古代社会においては初潮を迎えれば出産可能年代とみなされたわけで、15歳ぐらいで子を産むのはごく自然なことだった。(ドラマ「善徳女王」においてチョンミョンがチュンチュを産むのもそれぐらいの年代である)

そこで、多少の誤差はあるかもしれないが、

  • 古代社会における「女性の平均的な出産可能な期間」を15歳から25歳までと仮定してみる。(あくまでも「仮定」の話なのでご注意)
  • そうすると必然的に、同じ母から生まれた兄弟は10歳以上離れることはない。

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キムチュンチュの生年は一説には602年とされているので、ここから逆算すると母チョンミョンの生年は577年から587年の間ということになる。

チョンミョンの父、真平王の生年も不詳とされるが、「花郎世紀」によれば567年生まれということらしい。これを信じるなら、10歳で父親になるというのはさすがにムリと思われるので、チョンミョンの生年は582年から587年の間ぐらいに絞れそうである。

ちなみに、ドラマ「善徳女王」では、チョンミョン15歳のときに夫ヨンスが母山城奪還に出かけ戦死、宮殿を出て尼になった1年後にチュンチュが赤子で登場している。つまり、587年前後をチョンミョンの生年としていることがわかる。

トンマンこと善徳女王は、「三国史記」では真平王の長女となっているが、「花郎世紀」では次女とされているようで多少混乱がある。双子だという史実はないが、ひとまずチョンミョンとそれほど年齢差が無いとしてみると、647年に亡くなった時は60から65歳の間ということになるので、結構なおばあさんだったわけだ(当時の感覚として)。

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キム・ユシンの生年は595年なので、同じ母(マンミョン夫人)から生まれた妹たち(宝姫、文姫)の生年は遅くても605年までに収まるはずである。文姫はキム・チュンチュの妻となったので、当時の世相を考えるとチュンチュより年上(姉さん女房)とは考えにくいが、仮に605年を生年としてみると出産可能な時期は620年から630年の間ということになる。

チュンチュと文姫(文明王妃)の間に生まれた文武王の生年は不詳とされているが(「花郎世紀」では626年とされているらしい)、681年に亡くなっているので死亡当時の年齢は51から61歳の間に収まり、それほど違和感は無い。

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ミシルは、「花郎世紀」を参考に執筆された小説によれば銅綸、真興王、真智王、真平王との間に子を儲けているが、真興王(チヌン大帝)の子を産んだのが事実だとすれば、少なくとも真興王の亡くなる576年以前には出産のできる年齢に達していたわけで、ここから計算するとその生年は(遅くとも)551年から561年の間ということになる。

善徳女王が王位に就いた632年まで生きていたとすれば、71から81歳の間になっているわけで、まったく無い話ではないが王権を奪うような政変を起こせるはずもない。(そもそもミシルは女性の「性」を武器にしてのし上ったのであって政務に就いていたとは考えにくいのだが)

ちなみに、Wikipedia英語版では、クエスチョン・マークつきではあるが【540? ~ 600?】という表記がある。


キム・ユシンの二人の妹

2011年07月08日 | ヨンゲソムン

ドラマ「善徳女王」にはまったく出てこないが、キム・ユシンには二人の妹(宝姫、文姫)がいて歴史上も重要な役割を果たす。妹の文姫の方はキム・チュンチュの王妃となり、後の文武王を産むのである。

文姫がチュンチュのもとへ嫁ぐことになったのは、どうやらユシンの策略だったようである。
ユシンとチュンチュが蹴鞠を興じている最中に、ユシンがチュンチュの衣の紐を(意図的に)踏んづけてしまい、破れた衣服を縫い合わせるため妹たちに会わせた、という有名なエピソードが「三国史記」に記録されている。

この際、どういうわけか姉の方は遠慮して出てこず、妹が衣服を繕うのだが、その妹を見たチュンチュが一目ぼれして結ばれることになったらしい。

しかし、実は話はそう簡単ではなく、二人は付き合うことになったものの正式に婚姻をあげる前に文姫が子を身ごもってしまい、これを知ったユシンはなんと妹を焼き殺そうとするのである。(写真はドラマ「ヨンゲソムン」の一場面)
現代人の感覚とは異なり、当時嫁入り前の娘(しかも王族の血を引く)が妊娠するなどということは恥さらし以外のなにものでもなかった。

善徳女王(トンマン)が遊山に出かける日、ユシンは庭に木を積み上げて火をつけるのだが、その煙を目にした善徳女王が事の由来を側近にたずね、ちょうど目の前にいたチュンチュが原因だと知ると「すぐ行って救い出せ」と命令する。その後すぐにチュンチュと文姫は婚礼をあげることになるのだ。(この辺のことは「三国遺事」に記録されている)

どうやら歴史上のチュンチュくんは優柔不断な男だったようである。

ところで、「花郎世紀」の記録によれば、姉の宝姫の方は側室としてチュンチュの妃に迎えられたらしい。妹が正室で姉が側室というのもなにやら不思議だが、このあたりに何らかの秘密がありそうな気もする。(そういう説もある)

この時代、王たる者が複数の妻をもつことはあたり前のことで、以前ネタに書いた大耶城の城主の妻だった古陁炤(コタソ)は、ドラマ「善徳女王」にも登場したポリャン(宝羅:宝宗(ポジョン)の娘)との間に出来た子供である。

いずれにせよ、文姫がチュンチュのところへ嫁いだ事によってユシンは王族の外戚の立場になったわけで、復耶会(ドラマ上の設定だが)を解散しようがしまいが伽耶勢力を守ることは出来たわけなのだ。

 


日本を訪れたキム・チュンチュ

2011年07月02日 | 善徳女王

『日本書紀』巻25大化3年(647)の条には、キム・チュンチュ(金春秋)が使節として日本を訪れた記録が残されている。

新羅遣上臣大阿飡金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。來獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談咲。

新羅(しらき)、上臣(まかりだろ)大阿飡(だいあさん)金春秋(こむしゅんしう)等(ら)を遣(まだ)して、博士小徳(はかせせうとく)高向黒麻呂(たかむくのくろまろ)・小山中(せうせんちう)中臣連押熊(なかとみのむらじおしくま)を送(おく)りて、来(きた)たりて孔雀(くさく)一隻(ひとつ)・鸚鵡(あうむ)一隻(ひとつ)を献(たてまつ)る。仍(よ)りて春秋を以って質(むかはり)とす。春秋は、姿顔美(かほよ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。
(岩波文庫版による読み下し)

新羅は、大阿飡の官職にあるキム・チュンチュを派遣し、(以前日本から新羅に派遣されていた)高向黒麻呂(高向漢人玄理)と中臣連押熊を送ってよこし、孔雀(くじゃく)、オウムそれぞれ一羽を献上した。この際にチュンチュは人質とされた。チュンチュはイケメンで、誇らしげに話してはよく笑った。

647年といえば正月にピダムの乱が起こり、その渦中に善徳女王(トンマン)が亡くなった年である。「女王ではよく国を治めることができない」といって反乱を起こした一派が粛清されたのちも、再び女王(真徳女王)が擁立された状況にあって、新羅が高句麗・百済に対抗するためには唐の援助だけでなく日本(倭)の支援も必要と判断されたのではないだろうか。

しかし、その翌年(648年)になるとチュンチュは息子を連れ改めて唐に入朝しているので、日本では期待するほどの支援が得られなかったのかもしれない。当時日本は乙巳の変(645年)以後の改革事業の渦中(「大化の改新」)にあった。

キム・チュンチュが日本を訪れたことは朝鮮半島側の史書には記録されていない。
韓国の学会などはその事実を認めていないかもしれないが、後に王となる人物が一時的にせよ人質として派遣されるなどということは国としてのプライドに関わる問題だろう。正史に記録がないから事実がないとも言い切れないのではないかと思う。

『日本書紀』にはこのほかにもキム・チュンチュに関する記事がいくつか記録されている。

 

■『日本書紀』巻26斉明天皇6年(660)7月
高麗沙門道顯日本世記曰。七月云云。春秋智借大將軍蘇定方之手。使撃百濟亡之。
(チュンチュは唐の大将軍である蘇定方の手を借り、百済を挟み撃ちにして滅ぼした。)

其注云。新羅春秋智不得願於内臣盖金故。亦使於唐捨俗衣冠。請媚於天子。投禍於隣國。而搆斯意行者也。

■『日本書紀』巻26斉明天皇6年(660)9月
或本云。今年七月十日。大唐蘇定方率船師軍于尾資之津。新羅王春秋智率兵馬軍于怒受利之山。夾撃百濟。相戰三日。陷我王城。

■『日本書紀』巻27天智天皇即位前紀斉明天皇7年(661)12月
釋道顯云。言春秋之志正于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚。苦急。故爾也。

■『日本書紀』巻30持統3年(689)5月
若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。