瀧澤龍雄による栃木県の石碑調査と石仏調査

栃木県内で、石碑等を見て歩いた内容です。なお、コメントは、必ず実名を使用して下さい。内容により削除することもあります。

吼洲中條信爾の隷書体で揮毫された石碑を掲載(1)

2017年03月21日 | Weblog


栃木県佐野市、田沼地区の石碑調査もどうやら先週の土曜日で最終回を迎えることが出来ました。その最終調査の石碑が、今回掲載した「新建上宮祠碑」と、二條(条)基弘が篆額したものです。この碑の存在は、数年も前から確認していたのだが、余りにも汚れが酷く手を出すことに躊躇していた。そして今月、神社総代の方から調査承諾と、水道をどんなに使っても良いと言う快諾を受けて水洗いし、調査することが出来た次第だが、この石碑の高さは全高299.0cmというもの。然るに、三脚を立てるにはその前の地面が危うく難儀する。そしてバケツに何杯も水を汲んでは下から勢い良く水をかけて石碑全体を湿し、それから危ない三脚に乗って金属ブラシと亀の子タワシで磨くこと延々。石苔を取り除いた後で、今度は碑面のヌルをタワシで丁寧に拭き取る。そんな作業を三脚の上り下りを繰り返して、どうにか拓本が採れるようにするには大変な作業と時間を費やした。
それほどまでして、この石碑の碑文を手拓したかったのは、そこに刻まれた銘文書体は、隷書体。しかも、普通に見る隷書体ではなく、今までの隷書体を更に進歩させた、私流に名づければ「近代隷書体」とも言うべき、全く見事な見ていて飽きない完成された隷書体だからである。その実際の書体拓本画像は、多分今日中に画像化が終わるので、次回にはここへ掲載出来ると思っている。
ところで、この吼洲と号する中條信あるいは中條信爾という人物については断片的にしか判らないでいる。出身地は、信州で、万延元年に生まれて昭和三年に没したことと、中国で書を研鑽し、帰国後は国内で書の指導者として活躍し、幾つかの石碑(例えば、名古屋の豊国神社境内に「故海軍兵曹野田君之碑」)の銘文を揮毫しているらしいが、とにかく隷書を得意として活躍していたようである。そんな訳で、これをご覧の皆様の中に「吼洲 中條信爾」についての情報を御存知の方からの御連絡をお待ちしています。とにかく、私的には中條信爾の書に惚れ込んでいる。現時点では、栃木県でこれを含めて2基(他の1基は、今回のと同じ田沼地区の閑間にある「新路開鑿碑」)しか確認していないので、もう少し多く見てみたいと願っている。

いや~あ、それにしても今月はこのブログ更新をサボってしまった。それもこれも、足利市で一度に多くの石碑調査をしてしまったので、その清書に取り組んで日にちばかりが経過してしまったからである。加えて、先月に掲載した「養老碑」の読み下しに四苦八苦して多大な時間を費やしたり、再訪しての文字再確認などの普段なら滅多にしない作業に追われてしまったからである。やはり、70迄とと違って今では1基につき1週間の清書時間が必要のようである。といつつ、明日は佐野市の山口氏と一緒に足利市へ入る。予定では、3基の石碑を手拓してくるつもりなので、またまたブログ更新よりもそれらの清書に多くの時間を取られそうである。それでも、ここのところの石碑には面白いのもあるので、出来る限りブログ更新で御紹介したいと思っている。

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