「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二最期の像―多喜二の妻

2011-08-06 17:20:58 | 「党生活者」論 序曲

   多喜二の妻  

 多喜二の通夜の参列者の間で守られた、「秘密」もある。
それは「多喜二の妻」のことである。

 昭和四十二年六月九日の『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の署名記事「多喜二の妻」が
「手塚英孝の『小林多喜二』は多喜二の伝記のうちでオーソドックスなものだか、さいきん、この本を読んで、多喜二が結婚しているのを知った。しかもその相手は、小樽時代に赤線から救い出した有名な恋人田口たきではなくて、伊藤ふじ子というあまり知られていない女性である」。「多喜二が逮捕の危険をおもんぱかって、ふじ子に近づかなかったのは、当時の状況の下ではやむをえないことだった。ところが一か月後、多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。あるいは、だれも通知しなかったのではないかと疑われる。そして田口たきについては、その後の消息も明らかにされているのに、多喜二の妻である伊藤ふじ子は伝記においてもその他においても消えさって二度と名前もあらわれない」「党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか」
 と書いた記事を掲載した。

 これに応えて江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」とし
ー私も小林多喜二が地下活動中に結婚したことは全然知らなかった。合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかったのは、当時の社会状況としては当然のことである。それをはじめて知ったのは、昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いたー。ー多喜二とこの女との関係はハウスキーパー以上のものと私たちには受けとれた。女もそれを口に出そうとするそぶりが見える。だが私たちの方からはだれひとりとしてその事について彼女に問いただそうとしない。それは地下活動をしている人々の人間かんけいを、合法場面にいる者が問いただす事は絶対にしてはならない鉄則になっていたからであるー。

ー十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。そんなわけで彼女がつぎの晩のお通夜に姿をみせなかったのは私の責任である」。「その後、彼女は私たちの視界から全然姿を消してしまった。うわさによるといまはある男性と幸福で平和な生活を送っているという。私たちが彼女のその後についてふれないのは、そういう現在に彼女の生活にめいわくをかけたくないからであるーと結んでいる。

 余談だが、タキの弟・宮野駿がこの『朝日新聞』の「多喜二の妻」を読んだ感想の一端を、「A君への手紙ー多喜二~タキ世界の盲点にふれて」(『北方文芸』六八年三月号)に書いている。
 「数年前にも、進歩陣営で『多喜二~タキ世界』を物語化して映画を作る企画がもちあがり、長姉に協力要請があったのですが、タキは悲愴な決意をするほどに苦悩し、これを知った妹のミツが壺井繁治氏を通じていんぎんに断っております。企画者側が多喜二の恩を忘れたのか、といって激怒したという話がぼくにも間接的に伝わってきているのですが、これは怒る方が間違っているのではないでしょうか。こういう問題を考えるについては、前述しました朝日新聞夕刊“標的”欄の「多喜二の妻」という一文に対する江口渙氏の一節を是非紹介しておきたいと思います」。「タキの身上についても同様の配慮があってしかるべきだと考えるのです」と希望を述べている。


 平野謙の「下司の勘ぐり」
 「私は小林多喜二虐殺直後のあまり知られていない一挿話を書き添えておきたい」ともったいぶって書き出された、文芸評論家平野謙の「小林多喜二と宮本顕治」(『週刊朝日』一九七六年二月二十七日号)の一文は、
 ー日本共産党はいわゆるリンチ事件と表裏一体のものとして《赤旗》紙上に小林多喜二らの虐殺を大きく採りあげているが、なぜ小林多喜二が殺されたのか」ということについての
①地下生活から一年ちかく経った時、堂々と本名で一流雑誌に小説を発表し、《朝日新聞》などの大きく白ヌキの広告が掲げられるというような人もなげなふるまいに、警視庁特高課の人々は、あの野郎とばかりアタマにきたに違いない、②もうひとつ間接的な原因として、やはり私はコップ弾圧以来の日本共産党の文化政策の誤りをあげたいのである、と私見を披露している。
①の理由は警視庁特高課の人々への共感を示し、その虐殺にいたった責任を多喜二にあるかのように描いている。②においては顕治や多喜二たちが、『三二テーゼ』に基づいて、文化分野での共産党に天皇制から民主主義革命への旗をおろさず戦争反対を貫いた文化政策を具体化したことを非難する立場を表明するものなっている。

 そのうえで平野謙は

ーナルプ中央機関誌《プロレタリア文学》昭和八年四・五月合併号は「同志小林多喜二の××に抗して」という特集を編み、その一環として窪川いね子〈今日の佐多稲子〉の『二月二十日のあと』というすぐれた「報告文学」を発表している。小林多喜二のお通夜における母親の嘆きなど、今日でも鮮烈な印象を与えずにはおかないが、そのなかには「親せきの婦人が三人が転がるやうに走り込んできて小林のそばに泣き伏した時、お母さんは顔を上げ、小林の屍の上に目を落として、はっきりと言った。〃×されたのですよ。多喜二は〃その言葉で、三人の婦人が一層声高く泣いた」という一説がある。果たして当時小林多喜二の親戚の婦人が三人在京していただろうかいうことを、戦後、貴司山治らがひそかに問題にして、それは北海道以来の愛人・田口タキと、非合法生活時代のハウスキーパア・伊藤ふじ子と、新しい愛人だったらしい女流作家・若林つや子の三人ではないかという推定をたてたことがある。ー

とその「推定」の責任を、貴司山治にあるかのように書きながら、「通夜の席の三人の女性のうちひとりが若林つや子でなかったとしても、小林多喜二と彼女らの微妙な関係を無視することはできない」との断定に続いて、「かつて私はその問題をとらえて、当時の小林多喜二は党絶対化から自己絶対化という一種のラスコリーニコフ的な超人思想にとらえられ、文字通り党に身命を献げた自分には、なにをしても許されると思っていたのではないかという下司の勘ぐりをしたことがある。この場合問題になるのは、ハウスキーパア・伊藤ふじ子と小林との関係を、忠実な評伝作家手塚英孝が正規の結婚のように扱っている点だろう。佐多稲子の『二月二十日のあと』における三人の女性とは、田口タキとその妹と伊藤ふじ子のことだったらしい」
と前段では「下司の勘ぐり」であることを告白しながらも、それが「下司の勘ぐり」をはっきりとは認めようとしていない。


 平野が「この場合問題になるのは」と「この場合」とはどんな場合であるのだろか。

 ここには平野が、ゴマかそうとして削除した言葉が隠されている。
 この行間には、平野が「下司の勘ぐり」であることを認めたくないんだが認めざるを得ないのは、手塚英孝が「伊藤ふじ子と小林との関係が正規の結婚」であり、手塚が伊藤ふじ子と小林との関係を党指導部とハウスキーパーとの関係だと描けば、平野の「下司の勘ぐり」は「下司の勘ぐり」ではなくなり、それは直接的に多喜二の非人間的な罪状としてあげつらうことが可能なのだ、という願望を告白しているのである。
 それでいて平野はこのことを正面から反論されることを避けるため、姑息にも「佐多稲子の『二月二十日のあと』における三人の女性とは、田口タキとその妹と伊藤ふじ子のことだったらしい」と一文を不自然に添えて、その責任を放棄しているのである。
 なぜならば佐多稲子の『二月二十日のあと』を一読すればあきらかなように、そこには「伊藤ふじ子」は名はない。それも当然であろう。このいね子の「二月二十日のあと」は多喜二虐殺の惨状をレポートすることにその主題があり、平野の「下司の勘ぐり」の欲求をみたす立場からではないからである。それにそもそも「三人の女性」とは、田口タキとその妹とタキの小学校時代の同級生岩名雪子なのだから。
 さらに「ハウスキーパア・伊藤ふじ子と小林との関係を、忠実な評伝作家手塚英孝が正規の結婚のように扱っている点だろう」との引用した一節だけを読んでもその姑息さは読み取れるだろう。「忠実な評伝作家手塚英孝」の「忠実」は事実に「忠実」とも、事実をまげても日本共産党に「忠実」とも、どちらの意味にもとれるようにあいまいにしながら、文脈としては後者の「事実をまげても日本共産党に忠実」な「評伝作家」としているし、伊藤ふじ子の位置づけにしても「ハウスキーパア」と最初から先入見を与えるように前置きし、正規の結婚の「ように扱っている」と非難めかした叙述になっていることはだれにでも読み取れるだろう。

 そして平野は「下司の勘ぐり」を反省しているかのようなポーズで示しながらも、そのことを論じることを止めて、「ところで」と宮本顕治のことに話題を転じていくのである。そしてその結論は、「いわゆるリンチ共産党事件の最も哀切で悲惨な犠牲者は、この熊沢光子にほかならない。そのことは宮本顕治や袴田里見にはよくわかっているはずだ。現に袴田里見は彼女の暗い絶望について書いてもいる。しかし、ここでも私の強調したいのは、熊沢光子がいわゆるハウスキーパア制度なるものの哀れな犠牲者だったことである。敗戦直後、私はハウスキーパア制度の非人間的性について問題にしたが、そのときも中野重治や宮本顕治に一蹴されてしまった。一つの缺陥を組織上のものとみるみかたは、わが革命運動には伝統的に缺除しているようである」と結ぶのであった。 平野が伊藤ふじ子のことについて資料としたは、小坂多喜子『文藝復興』(昭和四十八年四月号)、『現象』昭和四十四年十一月号の古賀孝之の回想記の二つ、若林つや子については「淡々水の如きもの」(『文化集団』昭和九年七月号)だったが、平野がこの文章を書いた当時入手できる資料としてはもう一つ、一年前に公開された映画『小林多喜二』のパンフレットがあったことを指摘しておきたい。

 このパンフレットには、小坂多喜子の「通夜の場所で…」という談話が掲載されている。そこには、ふじ子の姿がくわしく描かれている。
「その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現れたのだ。灰色っぽい長い袖の節織りの防寒コートを着たその面長な、かたい表情の女性はコートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を自分の膝にもっていき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。その場をおしつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらっていった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛の表現をするからには、多喜二にとってそれはただのひとではないことだけはわかったが、それが、だれであるかはわからなかった。その場にいあわせただれもがわからなかったのではないかと思う。いかに愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思った。多喜二の死は涙をさそうという死ではない。はげしい憎悪か、はげしい嫌悪かーそういう種類のものである。それがその場に行き合わせた私の実感である。その即物的とも思われる彼女の行動が、かえってこの女性の受けた衝撃の深さを物語っているように思われた。その女性はそうして自分だけの愛撫を終えると、いつのまにか姿を消していた。私はそのすばやさにまた驚いた」。「私はその彼女と、そのような事件のあと偶然知り合い、私の洋服を二、三枚縫ってもらった。(中略)その時、私たちの間いだには小林多喜二の話は一言も出なかった。私たちの交際はなんとなくそれだけで切れてしまった」。「最近、多喜二の死の場所にあらわれた彼女が、思いもかけず私の身近にいることを知った。私の親しい知人を介してならいつでも彼女の消息がわかる。彼女が幸福な家庭の主婦で、あいかわらず行動的に動き回っていることを知り、私は安心した気分にひたっている」としている。

 

 ふじ子の守ったもの
 二月二十一日、原泉が多喜二が死亡したことを知って、築地小劇場から一番先に前田病院にかけつけ特高と激しくやりあい、検挙されかかったがそこへちょうど大宅、貴志山治がやってきて救われた。
 そのすきに劇場へにげ帰って安田徳太郎弁護士への連絡や、劇団の女優を築地署のピケにたてたりと気をもんでいると、一人の若い女性が近づいてきた。その女性は「私は小林の女房です」。「あの人にどうしても会いたい」といった。
 原泉には、左翼劇場の研究生の伊藤ふじ子だとすぐ分かった。
 この前年の春の一斉検挙を機に、警察の追求からかくれる生活に入った小林多喜二は、かくまってくれたふじ子と結婚した。もちろん結婚届を役所に届け出ることはできなかった。しかし、ふじ子は母を呼び寄せ、図案社に勤める自分の給与で生活し、警察の目をくぐっての組織活動と「党生活者」の小説や評論に打ち込み多喜二を支えた。新しい年を迎えた三三年一月七日に小説「地区の人々」を書き上げた直後の十日ごろ、ふじ子は職場の美術サークル仲間とともに特別高等警察に検挙され、二十日ふじ子の自宅が捜索された。
 さいわい多喜二は外出中で、ふじ子の母が「二階は部屋貸ししているのだから困ります」と応対し、多喜二の部屋に警察をあげなかった。
 直後に帰宅し、すぐに身の危険を知った多喜二は、隠れ家を去った。こうしてふじ子と多喜二の結婚生活は、九カ月たらずで終わったのだった。
 ふじ子は多喜二の死の場で、母セキに「いっしょに暮らしていた人間です」と挨拶した。
 セキは、ふじ子の言葉を聞き「死人に口なしだ」とその言葉をうけとめなかったという。二十二歳になったばかりだったふじ子は、失意のまま馬橋の家を出て、二度と小林家を訪ねることはなかった。
 澤地久枝は、「小林多喜二への愛」(『続昭和史のおんな』八三年、文芸春秋)で、八一年に亡くなったふじ子の遺品のハンドバックから七八年二月二十一日付けの『東京新聞』夕刊の切り抜きが見つかったという。その切り抜きは、多喜二の没後四十五周年に「伊藤ふじ子の献身」と見出しをつけた作家の手塚英孝「晩年の小林多喜二」の記事で、ふじ子のおよその経歴や、三十三年の一月に彼女が検挙された後の多喜二の生活を心配し解雇手当てを届けたことを、多喜二が手塚に涙を浮かべながら語ったことが書かれていた。
 さらに、ふじ子の遺品のなかには、多喜二が書き込みをしながら読んだ『新潮』などもあったという。
 このことだけでも、平野謙がふじ子を「ハウスキーパア」とする誤りは明らかだろう。
               ◇
 三三年の始め、ふじ子と暮らした家に残された多喜二の遺品は、死去から六十余年を経て、ふじ子が再婚した猛氏によって昨年四月、日本共産党中央委員会に寄贈された。(一九九九・二・二十)『りありすと67号』掲載

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1 コメント

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れんだいこ の誤読 (佐藤)
2013-02-26 23:37:25
昭和四十二年六月九日の『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の誤読を手塚の誤読としている。孫引きでの論建ては困ったものだ。

彼は三船スパイ説のあれこれを論じているが、そのソースを知らないようだ。教えてあげたくはないな。

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