長島美術館で開催中の「八島太郎生誕百年展」。
画家というより絵本作家として、日本よりアメリカで活躍し有名になった八島太郎は、1908年(明治41)9月21日、鹿児島県肝属(きもつき)郡小根占村(現南大隅町)に医師の三男として生まれた。本名は岩松惇(あつし)。
八島は、8つの島からなる日本国をあらわしているという。いわば日本太郎ではある。
代表作『からすたろう』は最初『CROW BOY』のタイトルで1955年(昭和30)アメリカで出版された。
日本語版は1979年に出て、両国で優れた絵本作家や絵本に与えられる賞を受賞している。八島太郎という日本男児を意味する筆名を使いだすのは、アメリカにいた1943年(昭和18)からで、彼の波乱に満ちた生涯は、先ごろテレビのドキュメンタリー番組でも取り上げられた。
19歳で東京美術学校(現東京芸大)西洋画科に入学したものの、軍事教練を拒否したり遠近法の不合格を理由に退学を命じられ、抗議したため美術学校を除名されたという。
22歳でプロレタリア画家新井光子と結婚し、中野重治、佐多稲子、小林多喜二、宇野重吉、滝沢修、岩永昶、中条(宮本)百合子らとの交流が始まったという。
岩松(八島)は1933年(昭和8)2月20日、築地署で虐殺された小林多喜二の通夜の席に参加し、あの有名な多喜二の遺体を囲む人々のなかの一人だ。
その妻、新井光子は、多喜二の地下活動を支えた伊藤ふじ子と親交があった。
昭和14年、自由に絵を描くことすら困難になって日本を夫婦で脱出。
アメリカ・ニューヨークで絵の勉強を始めた矢先、真珠湾攻撃により日米開戦となり、強制収容所での生活を強いられる。
戦争中は米軍情報部に属し、米機が空中散布した伝単(ビラ)を制作、日本人の厭戦気分、反戦の鼓舞に資したという。
後に新井光子と離婚。
新井光子は八島関係資料を東京都立文学博物館に寄贈したものの、石原都知事がこの博物館を解体。その資料は江戸東京博物館に引き継がれたものの、多くは散逸したと聞いている。
評伝に宇佐美承『さよなら日本―絵本作家八島太郎と光子の亡命』(1981 晶文社)がある。
多喜二の通夜に参加した経緯はp130にある。
――夫婦はその年の暮れ、京浜工業地帯に接した五反田駅の近くの空地のなかの一軒家に引っ越した。組織名でいえば城南地区である。(中略)
年があけて昭和八年の二月二十一日深夜、はげしく戸をたたく音に太郎はおこされた。連絡にきた男は「小林多喜二が築地署で惨殺された!」とさけんだ。タクシーをとばして岡本唐貴をさそい、杉並区馬橋の多喜二の家にかけつけた。
プロレタリア作家同盟中央委員長だった江口など十数人があつまって通夜がおこなわれていた。小林の顔は傷だらけで、肋骨がおれていた。母は息子の傷をなでながら、よよと泣き、あつまった面々は、いつ警察が検束に来るかもしれないというのでソワソワしていた。千田是也にうながされ、岡本は油で、太郎は鉛筆で、いそぎデスマスクを書き、通夜は早々に解散した。太郎は裏口から畑づたいに逃げた。
光はそのころ、小林多喜二のハウスキーパーをしていた伊藤ふじ子とつきあっていた。ふじ子は洋裁ができる水島みつ子(後に古賀孝之と結婚)を講師にしたてて大井町界隈の労働者街に洋裁学院まがいのもののつくり、そこを根城にサークル活動をはじめており、光もその仲間にくわわっていたのである。そうした行動は当然、危険をともなった。
かの女は家のちかくの無産者保育所に正をあずけてかけまわっていたが、そこも警察の圧力でつぶされる。正は育児に不なれな夫婦の家に預けられ、ある朝突然息をひきとった。詩人でもあった森田は、おさない命を悼んで詩をつくり、読んできかせた。泣きじゃくる光をみて、北岡愛子の母は「うちであずかってあげるんだった」といって涙ぐみ、佐多稲子は「どんな事情があろうと母親の不注意はゆるされないわよ」とつい強くいってしまい、下をむきっぱなしの夫婦をみて後悔した。
春のおわりの陽ざしに肌があせばみはじめるころ、光は「わたしはもう泣かない」と夫につげた。
しかし、時代は彼らに厳しかった。
夫婦は相次いで大崎署に検束され、転向をせまられた。
多喜二への拷問がここでも再現された。
その後のことは、ここでは書く余裕がない。
ただ夫婦はその後も誠実に生きたことだけは書いておきたい。
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ちなみに、光は宮本百合子とも親交があり、光が息子を預けていた保育所は、百合子の代表作の一つ「乳房」の舞台となった保育所であることは明記しておきたい。
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http://www.ngp.jp/nagashima-museum/hp_6/kikakuten/kikakuten.htm
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展覧会名 八島太郎生誕百年展
会 期 平成21年4月29日(水)-5月27日(水)・年中無休
開館時間 9:00-17:00(入館は16:30まで)・初日のみ10:30開場
場 所 長島美術館 別館地下展示室
入 館 料 一般800円(前売600円)/大学生600円(前売400円)
高校生以下、身体障害者は無料
前売券取扱所 鹿児島市内プレイガイド
(山形屋・コープかごしま・高木画荘・大谷画材・長島美術館受付)
主 催 八島太郎生誕100年展実行委員会
協 賛 カスロフ財団
協 力 ミュージアム知覧・長島美術館
後 援 鹿児島県・鹿児島市教育委員会・鹿児島市・鹿児島市教育委員会
南大隅町・南大隅町教育委員会・南日本新聞社・MBC南日本放送
NHK鹿児島放送局・KTS鹿児島テレビ・KKB鹿児島放送
KYT鹿児島読売テレビ・エフエム鹿児島・鹿児島シティエフエム
内 容 八島太郎(やしまたろう)は、本名を岩松惇(あつし)といい、1908年、鹿児島県大隅半島小根占町(現・南大隅町)に医師の三男として生まれました。鹿児島県立第二鹿児島(現・鹿児島県立甲南高等学校)を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、日本プロレタリア美術家同盟に身を投じ、同じ同盟の光子と結婚しました。
1939年、息子(マコ)を日本に残し渡米しますが、戦後、娘(モモ)が生まれた後、マコをアメリカに呼び寄せ、一家4人の生活がはじまります。
それから、初めて子供のための絵本「村の樹」を出版、その後、出版された「からすたろう」「あまがさ」「海浜物語」は、絵本最高の名誉とされているコルデコット賞次席を受賞し、世界的な絵本作家としての地位を確立しました。
今回の生誕100年展では、八島太郎が「アメリカの土にはならない、必ず帰って自分を育ててくれた桜島を描くのだ」と終世願い続けた想いを込めて、桜島と鹿児島が一望できる長島美術館において、八島太郎の絵画、絵本、写真、俳句、収集した人形、民芸品を展示いたします。
今まで知らなかった八島太郎の素顔、そして命をかけて願い続けた「人間愛」「平和」をお伝えすることが出来たらと願っております。
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イベント ●スペシャルゲスト
4月29日(水)-5月3日(日) 11:00-12:00/13:00-14:00
八島モモさんのサイン会、朗読会、写真撮影
●講演
5月10日(日) 11:00-12:00
「八島太郎と俳句」 高岡修氏(詩人・俳人)
●常時イベント
八島太郎ドキュメント映像上映
●こどもの日スペシャルイベント
5月5日(火) 13:00-15:00
「スケッチ会」 *画用紙以外はご持参ください。(参加賞あり)
●毎週日曜日イベント
5月10日(日)・17日(日)・24日(日) 13:00-15:00
音楽、ギャラリートーク、朗読会
●フィナーレイベント
5月27日(水) 15:00-16:30
未来へ、平和を願い
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長島美術館
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