「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

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多喜二最期の像―一枚の写真

2011-08-06 17:22:17 | つぶやきサブロー

多喜二ー最期の像
                         佐 藤 三 郎
   一枚の写真
 一葉の写真がある。正視に堪えない異様な写真だ。
 一人の男がぐったりとした魂がぬけたような表情で横たわっている。その向こうには、男女一五~一七人ほどか並んで座っている。前列右端のショートカットの女性は、うつむいてなにかをしっかり握っている。その左隣には腕組みをした男達が紺絣の着物姿で、横たわっている男に目線を注いでいる。その顔のくぼんだ目が、ガイコツの目の部分のように真っ黒な影になっている。そのうしろの席の人々は、カメラ目線であったりオドオドとした表情を浮かべている。
 一場のスナップ写真ではない。
 これは撮影することを通告され、被撮影者と撮影者の共通の意思によって成立している写真なのだ。ただ一人、横たわっている男ー小林多喜二をのぞいて。

 この写真は、昭和八年(一九三三)二月二十二日午前一時に撮影されたとされている。撮影者は、貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川であった。参列者は原泉、田辺耕一郎、上野壮夫、立野信之、山田清三郎、鹿地亘、千田是也、壺井栄、岩松淳、岡本唐貴、小坂多喜子…。多喜二の友人の女優、作家、画家たちであった。写真によって多喜二の死の真相を伝えようとしての撮影だった。彼等は、多喜二の死の意味を作家一人の死としてだけ受け止めていたのではなかった。それはなにより彼等たちが望んだ自由と民主主義の戦いを意味した。

 『朝日新聞』(当時の『東京朝日新聞』)は、二十一日の夕刊で「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕はる」の二段見出しでその死を
ー「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二月二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の藝妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約二十分にわたって街から街へ白晝逃げ回ったが遂に溜め池の電車通りで格闘の上取押さえられそのまま築地署に連行された、最初は小林多喜二といふことを頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取り調べの結果自白、更に取り調べ続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手當てを加えた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐたーと伝えた。
 多喜二の帰宅直後、夫の上野壮夫と小林家にかけつけ通夜に参加した小坂多喜子は、この夜のことを書いている(「私と小林多喜二」『文芸復興』昭和四十八年四月号)。
 「肌寒さが感じられるある日、どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。私と上野壮夫は息せききって暗い道を、それが夜であったのか、明け方であったのか、とにかく真っ暗な道を走っていた。私たちが息せききって心臓が止まる思いで走っている時、幌をかけた不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった」、「あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。その露地の左の側の家は当時郊外と呼ばれてたそのあたりによく見かける平屋建ての、玄関を入れて三間ぐらいの家で、奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた。」
 さきの写真には、多喜二の左のコメカミに十円玉大の黒いものが写っていた。もう一枚の写真は、さらに多喜二を死にいたらしめた傷跡を明瞭に記録している。この写真は、『時事新報』の笹本寅がつれてきた前川カメラマンが、裸にした多喜二を撮影したものだ。右腕の手首には破線のように断続する傷の跡が見える。左腕の第二関節部分が異様に黒くなっていることが分かる。それ以上に目をひくのは、太股の全体が真っ黒くなっていることだ。
 プロレタリア作家同盟委員長の江口渙は、『たたかいの作家同盟記』の「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」で、医師の安田徳太郎が検死した結果を書き留めている。
「安田博士の指揮のもとに、いよいよ遺体の検診が始まる。(中略)左のこめかみにはこんにちの十円硬貨ほどの大きさの打撲傷を中心に五六カ所も傷がある。それがどれも赤黒く皮下出血をにじませている。おそらくはバットかなにかで殴られた跡であろうか。首にはひとまきぐるりと細引きの跡がある。よほどの力でしめたらしく、くっきりと深い溝になっている。そこにも皮下出血が赤黒く細い線を引いている。だが、こんなものは体の他の部分にくらべるとたいしたものではなかった。帯を解き着物を広げてズボン下をぬがせたとき、小林多喜二にとってどの傷よりいちばんものすごい『死の原因』を発見したわれわれは、思わずわっと声を出していっせいに顔をそむけた。「みなさん、これです。これです。岩田義道君のとおなじです」安田博士はたちまち沈痛きわまる声でいう。前の年に警視庁で鈴木警部に虐殺された党中央委員岩田義道の遺体を検診した安田博士は、そのときの残忍きわまる拷問の傷跡を思い出したからである。小林多喜二の遺体もなんというすごい有様であろうか。毛糸の腹巻きのなかば隠されている下腹部から両足の膝がしらにかけて、下っ腹といわず、ももといわず、尻といわずどこもかしこも、まるで墨とベニガラとをいっしょにまぜてぬりつぶしたような、なんともかともいえないほどのものすごい色で一面染まっている。そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえて、ももの皮がぱっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。そのふとさは普通の人間の二倍ぐらいもある。さらに赤黒い内出血は、陰茎からこう丸にまで流れこんだとみえて、この二つのものがびっくりするほど異常に大きくふくれあがっている。電灯の光でよく見ると、これはまた何と言うことだろう。赤黒くはれあがったももの上には、左右両方とも釘か錐かを打ちこんだらしい穴の跡が十五、六カ所もあって、そこだけは皮がやぶれて下から肉がじかにむきだしになっている。その円い肉の頭がこれまたアテナ・インキそにままの青黒さで、ほかの赤黒い皮膚の表面からきわ立って浮きだしている」。「ももからさらに脛を調べる。両方のむこう脛にも四角な棒か何かでやられたのか、削りとられたような傷跡がいくつもある。それよりはるかに痛烈な痛みをわれわれの胸に刻みつけたのは右の人さし指の骨折である。人さし指を反対の方向を反対の方向へまげると、指の背中が自由に手の甲にくっつくのだ。人さし指を逆ににぎって力いっぱいへし折ったのだ。このことだけでもそのときの拷問がどんなものすごいものだったかがわかるではないか」
 と報告している。
 そしてさらに多喜二の死因が警察が発表の通り、「心臓まひ」であったかどうかを検証するため病院に解剖を依頼したが、小林多喜二の遺体だということを告げると、慈恵医大大病院も、どの病院も断った。すでに警察が手を回していたのだった。
 およそ三年後江口渙は、赤坂福吉町で多喜二とともに囚われ、膀胱結核で保釈となった今村恒夫を病院に訪ね、捕まった当時の経過をくわしく聞き真相をつき止めている。
 その話によると築地署で、水谷特高主任や悪名高い特高係の芦田たちが、多喜二と今村を取りしらべた。
「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」。
 獄中の様子については、戦後になって当時の獄中の様子の証言者が二人現れた。その一人は、当時房内で雑役にあたった鈴木伝三郎。彼はテロの後留置場に放置され死に至った多喜二の様子を、六四年の二月二十日付けの『赤旗』で証言している。
 通夜に集まった人々は、これらの一連の証拠写真のほかにも何とか記録を残そうと、プロレタリア美術同盟の岡本唐貴はその死顔を油絵に描き、演劇同盟の千田是也と佐土が石膏でデスマスクを移しとり、作家同盟の窪川いね子は『プロレタリア文学』の多喜二追悼特集に「二月二十日のあと」を報告した。 さらに警察は多喜二葬儀に集まった人々を総検挙し、虐殺の証拠を隠した。 昭和初年の日本で、二八年の普通選挙制度の実施と引き換えに制定した治安維持法は天皇制の国体を変革の運動について最高刑を死刑した。死刑宣告は皆無だったとはいえ、しかし、特高の拷問で虐殺された者は岩田義道、上田茂樹、野呂栄太郎などをはじめ、実質的な「死刑執行」は一〇〇人を超えながら、その虐殺の事実は闇に葬られてきた。
 それだけに多喜二の遺体写真は、昭和史の暗黒の側面を生生しく伝える貴重な映像であることがわかる。 

  特高が隠したもう一つの秘密        

多喜二は、何故とらえられ、即日殺されなければならなかったのだろうか。実は、そこには特高警察が採用していた「秘密政策」があった。
 当時は世界でも日本とドイツが、第二次世界大戦へのスタート台に立った年でもあった。アメリカをはじめとする世界的な恐慌はまだ続き、日本では特に東北地方のうちつづく凶作が農業恐慌に拍車をかけ、多くの貧しい農家が飢え生活のために、おびただしい数の少女が芸者屋に売られたのだった。
 二年前の日本軍による満州侵略の事変いらいの、「日本の生命線、満蒙を守れ!」「満州開拓に雄飛しよう」のスローガンは、こうした貧にあえぐ国民の心を中国への侵略に導いていった。

 一九三二年七月に『赤旗』に公表された「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」いわゆる「三二テーゼ」は、ー社会主義の達成を主要目標とする日本共産党は、今日の日本における諸関係のもとでは、プロレタリアートの独裁(執権)へは、ただブルジョア民主主義革命の道によってのみ、すなわち、天皇制の転覆、地主の収奪、プロレタリアートと農民の独裁(執権)の樹立の道によってのみ、到達しうるということを明瞭に理解せねばならぬーー現在の情勢は、日本共産党が党と労働者農民およびその他の勤労者層の広範な大衆との今日までいまだいちじるしく弱い結びつきを拡大し強化するために、そのいっさいの力を緊張させることをぜひとも必要としている」「かならずやもっとも近き将来に偉大なる革命的諸事件がおこりうるーを主内容とする当面する革命の戦略を定めていた。
 強まる中国への侵略戦争反対の左翼運動に対して、警視庁特別高等課は巧妙な戦略をとった。
 当時最大のスパイとして暴かれたのは、党中央資金家屋局に潜入していたスパイ、いわゆるスパイM(本名飯塚盈延)である。三十二年十月、Mの指図で大森銀行にギャングに入った大塚有章が検挙された。さらに『三二テーゼ』をうけて熱海で計画されていた党全国大会に集まった幹部党員が一網打尽で検挙され、中央部は壊滅的打撃を受けた。
 翌年の一月下旬、モスクワ帰りの山本正美を委員長に、野呂栄太郎、谷口平治、大泉兼蔵(のちスパイと判明)を中央委員とする中央委員会が再建され、一月二十五日付け「十月事件解禁に際して敵のデマゴギーを粉砕せよ!」(『赤旗』三月五日付け号)を掲載したが、その後大泉の策動によって共青中央から三船留吉を党中央にひきあげる過ちを犯している。
 この結果、山本委員長など中央幹部が連続して検挙された。
 五月になって野呂栄太郎を中心に、宮本、逸見、大泉、小畑が日本共産党中央委員会を再建した。
 年始めに起きた山本正美委員長、谷口直平中央委員検挙の背景を解明する作業の結果、三船留吉にスパイの疑いが起こった。山本、谷口の連絡線を調べたところ、山本は三船との連絡の際に検挙された。また谷口は、三船、大泉の義弟今井嘉一郎の三人で銀座四丁目交差点を三船を先頭に谷口、今井で歩いていたのに真ん中の谷口だけが検挙され、三船と今井は釈放されたのだ。
 三船は組織部会議を招集し幹部党員らとともに八百長的に検挙され、中央委員会からの査問から逃れた。このねらいを見破った共産党中央は、六月二十一日付け『赤旗』「挑発者香川の除名に関する決定」で除名を公告、さらに八月二十一日付けで「スパイ香川(本名三船)の判明せる素性」を顔写真とともに掲載した。それを見ると
 「スパイ香川の処分発表の節我々は、彼の身許の詳細について調査中であることを予告しておいたが、最近、次のような諸点が判明した。同志諸君、この破廉恥なるスパイ三船(香川)は、正体をあばかれる危険が迫るや、党の革命的断罪を恐怖して、秘密警察の指令によって、八百長的に逮捕され、二十九日間の留置場生活の後、再び出てきて、××、あるいは××に姿を現し、憎むべし、機あらば、再び党攪乱のため活躍すべくねらっている。彼を発見次第、断固たる階級的制裁を加え、再びスパイとして潜入せんとするこの破廉恥漢の意図を粉砕せよ!一、本名 三船留吉 二十五才/二、本籍 秋田県/三、写真 掲載の通り、ただし現在はこれより少し老けて見える。/四、昭和五年十月ごろ全労亀戸分会にいた時より既にスパイとして活躍す。(尚潜入の時期は、この前の発表では一九三三年二月とされていたが、一九三一年度に党に潜入したものである)」
 と公表した。

 一九三三年二月とされていた潜入の時期が、三一年と解明されたことは「一九三三年二月」が多喜二が虐殺された月であることを知れば、その重要さは理解されるだろう。
 さきに江口渙が今村恒夫を病院に訪ね、つかまった状況を聞いたことを紹介したが、そのなかにこんな話がある。
ー多喜二は、二月二十日に共産青年同盟の責任者にあう要件があって、今村といっしょに、連絡場所の赤坂福吉町に行った。そして指定された喫茶店のなかをのぞくと、これまたどうしたことだろう。連絡すべき相手はみえないで、特高とおぼしき背広姿が三人もいる。「これはいけない」と思ったふたりはすぐさまとってかえすと、三人の背広もたちまち往来に飛び出してきてあとを追われ、ふんづかまえられ、たちまち縄を打たれてトラックに積み込まれ築地署へはこばれたーと。
 これだけでは、共産青年同盟の責任者による裏切りに見える。しかし、これが特高警察の「秘密政策」だった。今村は文化連盟内に結成された共産青年同盟グループの責任者で、『赤旗』の配布を受け持っていた。その日の会合は、三船留吉から会合を申し入れられ計画されたものだった。つまり、多喜二は三船によって計画的に売り渡されたのだった。
 スパイは組織の奥深く潜入し、多喜二など中心的活動家を巧みにおびき出し検挙したばかりではなく、弱体化した党中央を乗っ取り、組織方針をまるごと天皇制政府に方針に従わせることにその狙いがあったのだった。
 そのスパイ政策の解明は、七年後の四〇年四月十八日の宮本顕治の第一回公判の記録に「自分の友人である小林多喜二のごときもスパイ水原某の為に、連絡中逮捕され築地警察署に連れて行かれ数時間で死亡」(『宮本顕治公判記録』新日本出版社)で明らかにされたのだった。

 多喜二虐殺後の日本は、三三(昭和八年)二月二十四日、ジュネーブの国際連盟総会で満州事変の処理に関する国際連盟調査団の報告書、すなわちリットン報告にたいする討議が行われ、その賛否が問われた。反対は日本だけ、棄権はシャムだけでその他の参加四二カ国の賛成だった。「日本敗れたり」とみた当時の代表松岡洋右は、リットン報告を激しく非難、日本の国際連盟からの脱退を事実上意思通告した。
 松岡の帰国を熱狂的な歓迎さわぎでむかえた三月二十七日、天皇裕仁は声明を発して、日本の国際連盟脱退を脱退しても満蒙の支配を守ることを公然と世界に宣言した。
 この年はまた、京大での自由主義的立場からの滝川教授の「トルストイの『復活』と刑罰思想」と題した法学講演で「犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべきである」と講演したことを、現行刑法を否定する左翼思想として弾圧した。この時代、天皇制政府は、もはやブルジョア自由主義の立場から、法律研究することさえも許さなくなったのだった。

           (つづく)

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読売新聞記者 河辺確治 (御影暢雄)
2011-08-06 22:10:07
 多喜二と交流のあった読売新聞文芸部記者・河辺確治は21日午前、新聞社に多喜二の死亡が伝えられ編集室が異常な緊張に包まれたと記しています。夕刻、彼は前田病院に単身乗り込み、刑事と押し問答の末追いだされ、それから何時間も病院の近くから、多喜二が安置されていると思われる部屋を見つめ続けたそうです。

 このことも、多喜二が如何に友情に篤い素敵な青年だったことを教えてくれますね。
 河辺は、メガネをかけて変装して街を歩いている、地下活動中の多喜二を見かけた思い出も記しています。

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