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自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 豊臣方における京都への進軍案

2016-10-29 08:57:08 | 地震 津波
 大坂の陣では、豊臣方の軍議に於いて当初は京都に進軍する案も出ていたとの説が有るようです。
 結論から書きますと、結果論になるのですが、仮に京都に徳川軍の兵や武器等があまり多く無かったならば、の場合に限りますが、この案はそう悪い方法でも無かったかも知れないと筆者は見ています。
 多少の時間稼ぎ程度だったかも知れませんが、ある程度は徳川方を手こずらせ、もしかして石高は減っても豊臣氏の存続になったかも知れないと思っています。
 では仮に京都へ進軍していたらどうなっていたのか、考えられる事についてリストして見ました。

1. 徳川軍の少なくとも一部または少なからぬ割合は、当然京都の城に篭城もするでしょうが、京都での地震の想定外の頻発で、篭城する徳川方がかなり動揺し、状況によっては城外に無理に出てしまい、不利な接近戦をさせられて苦労しかも知れない事。

引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen03.htm
1614(慶長19)年
  9月 2日 江戸で地震。(慶長日記10?)
 10月15日 諸国で大地震。(大地震暦年考)(御日記54)(孝亮記 2)(和漢合運指掌図 4)

1615(元和 1)年
  1月16日 京で地震。(孝亮記 2)
  1月17日 京で地震。(続史愚抄53)
  1月30日 京で地震。(続史愚抄53)
  2月24日 京で地震。(続史愚抄53)
  3月 4日 京で地震。(孝亮記 2)
  3月25日 京で地震。(孝亮記 2)
  6月 1日 江戸で大地震。家屋多く倒壊。(玉露叢 5)(続史愚抄53)
  7月14日 京で地震。(孝亮記 2)
  7月27日 台風による被害のため、佐渡の年貢を3年間半減する。
 11月25日 大地震。(日本災異誌)
        翌年にかけて諸国大飢饉。(津軽信枚公御代日記)(続史愚抄53)
        (歴史地理4-3)(凶荒史考)(青森県史 1)

1616(元和 2)年
  1月18日 江戸で地震。(孝亮記 2)
  7月28日 仙台で大地震。城壁楼櫓悉く倒壊。(台徳院御実記43)
  9月16日 江戸で地震。(孝亮記 2)
 10月10日 京で地震。(続史愚抄53)

1618(元和 4)年
  4月27日 京で地震。(孝亮記 3)
  8月11日 京で地震。(続史愚抄53)
  8月12日 京で地震。(孝亮記 3)

1619(元和 5)年
  5月 8日 京で地震。(孝亮記 3)

1620(元和 6)年
  1月 3日 京で地震。(孝亮記 4)
  3月 7日 浦和で大雹降り、鳥多く死す。(台徳院52)
  4月 5日 京で地震。(孝亮記 4)
  5月21日 大雨で賀茂川・大和川などが氾濫。(孝亮記 4)
  7月12日 京で地震2回。(孝亮記 4)
  7月14日 京で地震。(孝亮記 4)
  9月21日 京で地震。(孝亮記 4)
    この年、霧島山噴火。(日向郷土史年表)

1621(元和 7)年
  1月27日 京で地震。(孝亮記 4)

1622(元和 8)年
        冷気秋の如し。(台徳院御実記54)
 10月16日 京で地震2回。(資勝卿記)
 11月18日 京で地震。(孝亮記 5)

引用終了

 そして更に、

2.豊臣方が城攻めに固執せず、京都にある町人や公家などが住むエリアの多数の建物に分散すれば徳川方は高性能な大砲などが使えないケースが多い事。
3.市街地での接近戦では公家衆や町民などの反感を買わぬよう、一般人を巻き込むような手荒な戦法を双方共に採れず、戦闘が長期化した可能性が有った事。
 丁度、本能寺の変で仮に織田方の兵が明智光秀の軍とほぼ対等するような状況の戦闘が多数の箇所でほぼ同時に行われ、野戦とも言えない、篭城戦とも言えないような戦いが多数の個所で行われ、戦闘が長引いた可能性があり、これは神出鬼没な戦闘が得意な真田幸村には有利だったかとも考ええられる事。
3.市街地での接近戦、遊撃戦は通常の野戦と違い、全体で徳川方も豊臣方も戦闘力に差は殆ど無く、また兵力の差も開戦当初はあまり無かった事。
4.1615年6月には江戸で大地震が有り、それまで豊臣方が持てば徳川方には動揺が走った可能性もある事。
5.結果論ですが、仮に1616年1月に倒れるまで約1年、6月の家康の死去まで僅か1年半程度なら先頭を長引かせて時間稼ぎができれば、もう少し有利な立場で和睦できたかも知れない事。
6.京都の建物などの破壊や不安を嫌っ朝廷や公家衆、寺社勢力などが仲裁に入る可能性もある事。
 秀吉は人たらしだったと言われ、生前には公家衆に、そして伴天連追放令などで国内の仏教寺社勢力に快く思われていたと考えられる事。
7.1619年の飢饉まで戦闘が膠着状態であれば、明軍と連携した反徳川の勢力がスペイン勢の武器供給を背景に一斉蜂起した可能性もある事。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
ただし寛永の大飢饉を除いて江戸三大飢饉と呼ばれる場合も多い。また三大飢饉とは別個に寛永の大飢饉とこれに元和5年(1619年)・延宝3年(1675年)・延宝8年(1680年)の飢饉を加えた4つを「近世前期における4大飢饉」として取り上げる見方もある。[誰

引用終了

 飢饉ですが、明朝とても17世紀の寒冷化で滅亡したとの説も有ります。

引用開始(一部抜粋)

http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2014/03/blog-post_16.html

 実際に、明代末の17世紀前半にかなり後半な地域を捉える大飢饉があったことが史料からも確認されます。いくつかの断片的な記載を以下に記しておきます。
(中略)
 日本でも17世紀前半には、寛永の大飢饉が生じています。特に東北地方(青森)から中部地方(岐阜など)にかけての地域で大飢饉が発生しました。
 中国の国号の「大明」は太陽のことを示すといわれていますが、実際には気温の低下とともに大明帝国は滅びたと考えられます。

引用終了

 筆者は明が滅亡した要因は複数あり、寒冷化はその一つに過ぎないと見ていますが、寒冷化さえなければ他の要因があっても或いは明は滅亡しなかったかも知れないとも思えますので、やはり明の滅亡の要因が気温の低下だったとしても間違いでは無いとも考えています。
 京都進軍では徳川方の兵力、武器弾薬も或いは食料などを家康がどれだけの量で配置させていたのか、と言う点が鍵だったもでは、と思えます。
 用心深い家康ですからもしかしたらかなりの量を京都やその近くに隠し持っていたのでしょうか。
ジャンル:
災害
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