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自然災害 仕組みとアプローチ -  関ヶ原の戦い 二度死にかけた島津義弘

2016-09-18 19:02:52 | 地震 津波
 サブタイトル「関ヶ原の戦いと真田一族、九鬼一族」を記事にしていて、関ヶ原の戦いが何かオカシイと筆者が思った事があります。
 それは水軍が強固な毛利氏、九鬼氏などが、わざわざ家康の得意とする内陸の野戦である関ヶ原を主戦場に引き込まれたのは何故?と言う事です。
 疑問に思って調べて見ると多くの矛盾点が出て来ます。
 自然災害の観点から言うと、瀬戸内海での水軍の戦闘に徳川方を引き込んでいれば、10月ですから台風で東軍の水軍を殲滅、撤退させる事も或いは可能だったはずと普通に考えられます。
 更に疑問な点ですが、例えば島津義弘が家康の要請で最初は東軍に属する為、伏見城に行くのですが、入城を断られて西軍に従軍する話です。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した[8]。

だが石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日(10月20日)の作戦会議で義弘が主張した夜襲策[9]が採用されなかったりするなど、義弘が戦意を失うようなことが続いたと言われているが、これは後世に書かれた『落穂集』という二次的な編纂物にしか記載されておらず、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、この逸話は史実だと断じることはできない[10]。

引用終了

 伏見城に入城して東軍として参戦しようとしたこの件を、江戸時代に後から島津氏が作ったものだとする説も多いのですが、それだとすると西軍に加担するつもりならば最初の1000の軍勢、後で1800に増強したと言われていますが、いずれにしても少な過ぎてつじつまが合いません。
 やはり最初は東軍に属するつもりで京都に出向いたと筆者は考えます。
 また仮に伏見城に入城できたとしても、伏見城は西軍により落城、殆どの東軍方が戦死していますから、島津義弘とて生存できたか疑問です。
 島津義弘が伏見城に入城するのを妨害する勢力は多々有ったと思います。
 まずは西軍の軍勢を無理やし増やそうとする石田三成や毛利氏など西軍方、どうせ東軍が勝つのはわかっているのだからその場合の領地加増を目論む東軍諸大名が島津氏領地分を減らそうとした可能性、東西両建て方式で家名、所領安堵になった場合のできれば加増を目論む諸大名、天下分け目の戦いの勝ち組への所領配分に悩む家康、まあ考えればいくらでも有り得ます。 真相がどれなのか、更にはこうした利害関係者がどうかかわっていたのかは今となってはわかりません。
 複雑怪奇な利害に巻き込まれながら、島津義弘は命からがら関ヶ原から脱出します。(島津の退き口)
 
 
ジャンル:
災害
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