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自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 家康は1615年夏までには終結させようとしたのか

2016-10-17 23:49:07 | 地震 津波
 大坂の陣は1614年11月に冬の陣が始まり、夏の陣も1615年5月に大坂城陥落で終結しています。
 冬の陣緒戦である木津川口の戦いで海上補給路をほぼ絶たれ、更に冬の陣で徳川軍が大坂城を全面包囲しており、中世と言えども「近代戦は補給戦」の同様、もう急がなくてもやがて食料、武器弾薬等は近い内に尽きるわけで落城は目に見えていたはずなのです。
 しかし家康は急ぎました。
 何故でしょう。
 それは「家康が台風シーズンになる前に落城させておきたかった」のだと筆者は考えています。
 理由はこうです。
 仮に強い台風が来た場合で、制海権を握っている徳川方の軍船が大打撃を受けた場合には復旧に時間がかかる事です。
 軍船は簡単に短時間では造れません。
 仮に伊勢、三河、駿河、安房等から軍船を動員させるとしても、黒潮や偏西風と逆らう状況となるので時間がかなりかかるはずです。当時は帆船か手漕ぎですから。
 では西方の大名はとなると毛利氏、島津氏などは外様大名であり、これまでの経緯もあって不満がある事は当然想定され、いざとなればどう出てくるかはわからない。少なくともあてにはできなかったはずです。
 そして台風で水軍機能が極端に低下したと知ったスペイン・ポルトガル勢がフィリピンあたりから急遽武器弾薬、もしかしたら軍隊まで動員して来るかは未知数、と言う状況だったのではないでしょうか。
 徳川方の制海権が弱ければ、ガルバリン砲を持つスペイン船も来たのかどうか? 或いはそこまで露骨な豊臣方支援まではしなくとも台風で損壊した堤防で大坂城まで海上輸送ができるような状況になれば、これで武器弾薬、食料程度の供給は十分したかも知れません。
 大坂城に避難していた宣教師やキリシタン達がどの程度までフィリピンにあるスペインの拠点と連絡をとっていたかは、新たな資料でも見つからない限りはわかりません。
 そして実はそれだけではありません。
 新興のオランダが1610年にはスペインの拠点であるフィリピンに攻撃を始めました。

引用開始(一部抜粋)

http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2_%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E6%99%82%E4%BB%A3
17世紀に入ると、政治的にスペインと対立し、東アジアへの進出が盛んだったオランダ連合東インド会社によるフィリピン攻撃が1610年、1660年と断続的に行われた。ヌエバ・エスパーニャ副王政府はこうしたオランダによるフィリピン攻撃からの防衛費をも負担した[33]。1603年には、マニラで最初の華人反乱が起きている。1621年から1621年にかけてBankaw Revoltが起こった。

引用終了

 豊臣方がオランダと連携する可能性がゼロと言う状況でも無かったと思います。
 徳川方がこうした状況のどこまで把握していたか、今となってはわかりませんが、家康はそのあたりも事も有る程度は考えていたと見ています。
ジャンル:
災害
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