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自然災害 仕組みとアプローチ -  大阪の陣 なぜ宣教師やキリシタン達は大阪城内にいたのか

2016-10-12 19:37:45 | 地震 津波
 大坂の陣について調べていると奇妙な内容が有りました。(大阪と大坂が混在する表現になっていますが悪しからず。昔は大坂、今は大阪だそうです。)

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。[注釈 6]。

引用終了

 1600年以降のキリスト教禁止の動向は次のような状況です。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4

そんな中で1609年にマードレ・デ・デウス号の事件が発生する。それ自体はキリスト教と何の関係もなかったが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった有馬晴信と目付役で同じくキリシタンであった岡本大八の収賄事件が発覚する(岡本大八事件)。

この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始める。
慶長の禁教令

江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。

これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。

その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。

引用終了


 確かに禁教令は1612年からなので宣教師やキリシタン達がどこかの建物に篭っていた事はわかるですが、それが大阪城と言う点が何か違和感があると思うのです。
 何故かと言うと、秀吉の時代、既に豊臣政権も既にキリスト教排除の政策を打ち出していたからです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において豊臣秀吉が発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreから由来。
(中略)
追放令後
禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことである。このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令も言い回しなど基本的な部分においてこの秀吉のバテレン追放令にならうものとなっている。

引用終了

 もう一件。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件[1]。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。

引用終了

 と言うわけで、仮に宣教師やキリシタン達が仮に大坂城に逃げて来ても、豊臣氏は城内には入れなかったはず、と言うのが当然なはずです。
 では本来は大坂城内にいるはずのない宣教師やキリシタン達が何故いたのか? です。
 それは「豊臣方が政策変更してスペイン、ポルトガル、キリシタン、元キリシタン達と連携し、徳川軍に反撃する事を検討し始めていたからに他ならないから」ではないでしょうか。筆者にはそうにしか見えません。
 これは筆者の憶測に過ぎませんが、おそらく豊臣秀頼を始めとする豊臣方は宣教師やスペイン、ポルトガル貿易商らとこれら国々からの新式兵器の輸入やキリシタンの戦闘への参加などを打ち合わせていたと考えます。
 大坂城内のこうした動きのどこまでが徳川方にわかっていたのかは把握できませんが、少なくとも宣教師やキリシタン達が集まっていた事は徳川方にもわかっていたはずで、家康が大坂の陣を急いだ訳の一つはこうした豊臣方やキリシタン勢力が猛烈に力をつけない内に封じ込める事も狙ったとも思われます。
 一般には自然災害が甚大な時には多くの人は神に祈る気持ちが強くなる傾向があり、大災害が発生するとそれがトリガーになって豊臣方が一斉蜂起、つまりクーデターを起こす可能性が少なからず有ったのではないでしょうか。
 
ジャンル:
災害
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