hiroべの気まま部屋

日ごろの出来事を気ままに綴っています

先週の夕食当番(鶏とキノコの冶部煮 ほか)

2016-09-30 10:17:15 | 主夫業


 金曜日になりましたので、先週の夕食当番の結果報告です。

 9月23日金曜日:焼き鳥と揚げ出し豆腐(いずれもスーパーの総菜)
 

 涼しくなって金曜日の刺身の日は終了となりましたが、手抜きは手抜きなくということで、並べただけの料理です。

 9月24日土曜日:赤魚の粕漬け(ハムサラダ)
 

 これは見ていただいたとおりです。

 9月25日日曜日:豆苗のワンタンスープとアジフライ(スーパーの総菜)
 

 先々週に使った豆苗が一週間もたたずに再生したので、上沼さんのレシピ(8/30放送分)でワンタンスープ作りました。

 9月26日月曜日:鶏とキノコの冶部煮(ホウレンソウの白和え:スーパーの総菜、ほか)
 (冒頭の写真です。)
 この料理も上沼さんのレシピ(9/20放送分)で作りました。最後におろしワサビを加えると美味しいということで
やってみましたが、そのとおりでした。だてにレシピ作っていませんね。



 
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創作石彫:その50「花持つ童女」

2016-09-29 10:41:21 | 石彫り


 長兄の石彫りの作品、第50回の今日は「花持つ童女」という作品です。

 兄の作品集からのご紹介、今回は「いのり」シリーズからのものです。

 祈りのポーズではありませんが、何か少女らしい夢見をしているようにも感じます。


 (「いのり」シリーズ中表紙)
 


 なお、作品は一応売り物です(高価ですが)。作品がほしいという方はその旨
、連絡先などを「メッセージ」欄(PC版の「最新コメント」の上にあります)よりコメントください。
在庫の有無や価格など確認してご連絡します。

 『石あかり』も絶賛発売中です。こちらも(過去記事)どうぞ!
 



 
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潔癖症?

2016-09-28 10:45:15 | MyGarden

(MyGardenの玉すだれ、真っ盛りです)


 TVのエンタメ番組、何でもありの世界とはいえ、片付けられない女性タレントが登場、ゴミ屋敷を片付ける
そして、その後をフォローする、などという意味不明な番組まで登場しています。
 一方でというか、これらの片づけられない女の前に登場したのが、潔癖症男、やたら綺麗好きな男、
タオルを山積みして、一度使ったら、すぐ洗濯などと紹介して、女性陣をどん引きさせる、そんなのもありました。



 で、我が家はというと、夫婦そろってB型、いろいろ手を出して、興味のあることは一生懸命になるが、
面倒なことは全く苦手、当然片付けも苦手、リビングに物は出来るだけ置きたくないので、結果私の書斎は物置状態、
さすがに年末の大掃除では少し片付けようかと、すぐやらないのもB型でしょうか?

 そんな私ですが、最近、一つのことが出来なくなっています。それはエスカレータのゴムベルトを素手で握れません。
冬はたいてい手袋をしているのでいいのですが、この時期は、長袖の袖先を延ばして握ったり、ひじを置いたりしています。
 これ原因ははっきりしています。それはTVで紹介されるインフルエンザ対策の結果です。「外出したら、手を洗い、うがいを!」
買い物や乗りもので、不特定多数の人が触ったものを触ることで、手にウイルスが付くので、帰ったら手を洗いましょう、
という訳で、よく紹介されるのが、電車のつり革、エスカレータのゴムベルト、買い物かごやワゴンの握り、などです。
 

 これらの例のうち、エスカレータのゴムベルトだけが不思議と素手で触れなくなりました。おそらく、他のは、避けようがないので
ショウガナイ、ということなんでしょう。なんとも中途半端なこんなところもさすがにB型だからでしょうね。
 図書館の新聞や本も気にはなっています。触らないわけにはいかないので、読んだ後は必ず石鹸で手を洗っています。


(黄色の玉すだれ)


 私、潔癖症でしょうか?

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仏教思想:中国編(終)

2016-09-27 11:51:07 | 仏教思想

(兄の作品より「祈願の坐像」)


 仏教思想の中国編(天台・華厳・中国禅・中国浄土)、長くなりすぎましたが、最後の「中国浄土」です。

 おそらく、仏教ではこの浄土宗の教えが、一般の我々にも一番分かりやすい、なじみのある教えだと思います。
「南無阿彌陀仏」と称えなさい、そうすればだれでも、極楽浄土に行けます、という教えで、実に分かりやすいです。

 どうやら、お釈迦様の創造した仏教には「浄土」世界というのは無かったようで、浄土が登場するのは、大乗仏教成立後
のようです。
 お釈迦様の死後、仏教は多くの宗派に別れ、その主張を戦わせ合います。その結果、仏教は煩瑣な理論で一般大衆からは
離れた、出家信者に独占された独善的ものへとなっていきます。これを批判し、お釈迦様の本来の仏教に戻るべきだ、という
運動、宗教改革が「大乗仏教」運動だったわけですが、その中で特に主張されたのが、「慈悲」の精神でした。
 小乗仏教の「自利」(自分の利益のため)でなく、「他利」(他人のため、つまりは一般大衆のため)の仏教、それが大乗仏教
だったわけです。
 (特に大乗仏教では、慈悲の役割を「菩薩」に求めます。菩薩は仏様になる前の悟りを得た修行者ですが、自らの悟りを得た後は
一般大衆のための慈悲のために活動する役割を与えられ、広く一般大衆の信仰の対象となっていきます。)
 
 その「慈悲」の結果をもっとも端的に表した世界が「極楽浄土」だったわけです。

 この世は苦(貧困、罪悪、病気など)だらけの世界だ、だから、観音様に導かれ、阿彌陀様のいる全てが清浄な極楽浄土に行きたい。
そのためには「南無阿彌陀仏」と称えればよい、という訳ですから、一般大衆には分かりやすく受け入れやすかったわけです。
 「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」(此岸(しがん、汚れたこの世)を離れ、彼岸(ひがん、浄土)を求める)
家康の旗印として有名ですが、浄土信仰を表した言葉です。

 中国浄土は、この極楽浄土世界を表した三つの浄土関連経典(俗に「浄土三部経」)をもとに、「曇鸞(どんらん)」・
「道綽(どうしゃく)」・「善導(ぜんどう)」の三人のより成立、確立されます。
 特に善導は日本の法然に強い影響を与え、日本浄土宗の成立につながり、曇鸞はその一字を自らの名前とした親鸞の思想に大きな
影響を与えます。

 「浄土三部経」は次の三つで、それぞれ以下の役割を持っていました。
 

 それと、中国で浄土宗が成立した背景として、千々に乱れた時代背景もその要因となっています。世は唐代前の混乱期で
一般大衆は、戦乱に巻き込まれ、その生活は困窮していました。この時代背景をみて、仏教の「末法時代」に入ったと時の
仏教関係者は見たのです。
 
 その末法時代を強く感じた道綽は、この時代に合った仏教として、一般大衆を救う手法として、曇鸞の唱えた「口称念仏」(
口に出して称える念仏)が最もふさわしいと、苦しむ下々の人たちに布教していきます。

 なお、中国浄土での三名僧の役割は、曇鸞が浄土宗の理論を確立し、道綽がそれを下々に下ろし、さらに善導が唐の都長安で
広く流布する役割を担いました。

 概要が長くなり失礼しました。最も最近に整理した中国浄土ということで、少し詳細に入りました。

 この後、日本編4巻(空海・親鸞・道元・日蓮)の整理に入ります。中国編で3年半ほどかかっています。何とか頭が少しでも回転する
うちの終わらせて、さらに次の段階に入りたいのですが、どうやら時間切れの心配も出てきました。
 いずれにしろ、少しづつ、楽しみながら続けたいと思っています。

 なんとも、よくわからない概要でしたが、3日間お付き合いしていただいた方には、特に感謝です。






 
 
 

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仏教思想:中国編(続き)

2016-09-26 11:35:07 | 仏教思想

(散歩にて)


 昨日に続き、仏教思想の中国編(天台・華厳・中国禅・中国浄土)の残り、中国禅と中国浄土です。

 なにぶんにもよく分かっていない者が適当に書いていますので、余計理解不能かと思います。どうぞ、無理せず
パスすることをお勧めします。

 昨日は、天台・華厳の概要をお話ししましたが、この二つの宗派と、中国禅・中国浄土の二つの宗派とは大きな点で
違いがあります。
 前者は、理論的な宗派、哲学的なアプローチで、その意味では難解な思想と言えます。一方後者は、理論よりも実践に
重きを置いた宗派となっています。
 天台でも実践は重要視されていますが、緻密な理論展開に特徴があります。それと、天台の実践法(坐禅や念仏)は
結果として、中国禅の坐禅、中国浄土の念仏として展開されて行くこととなります。

 それでは、中国禅・中国浄土について個別にみていきたいと思います。

 その3「中国禅」。禅はインド古来の瞑想法であるヨガと基本的には同じものです。理論より実践のための宗派と言えます。
したがって、他の三派のように思想的に基本となる経典というものを持っていません。極論すれば思想がないとも言えます。
 中国仏教全般にいえることですが、インドからもたらされた仏教がそのまま中国に定着した訳ではありません。中国古来の思想
である儒教や道教(老荘思想)などの影響を受けて、中国的仏教として変容したと言われています。
 特に大乗仏教の「空」の思想は、中国では道教の「無」の思想と同じものと理解され、受容されていったわけです。
その中でも、中国禅は思想的にはもっとも道教的、極論すれば、道教と同じものと言われています。

 実践主体とはいえ、宗派である以上は布教活動は必要なわけで、そのための思想背景を持つ必要があった訳で、その思想は「華厳思想」を
を背景にしていると言われています。華厳では実践法は重要視されなかった反面、中国禅では、華厳思想を背景に、坐禅の実践が
強調されていったわけです。
 華厳では「現に人はそのまま仏なのだ」というわけです。それは中国禅の思想「人の心は清浄だ、清いものだ、あるがままの今
でいいのだ」に繋がっていきます。
 中国禅は、大きく北宗禅と南宗禅にその思想体系が分かれますが、前者が人の心は本来清いものだ、だから表面の汚れを取るために
坐禅の修行をと主張しますが、南宗禅では、人の心は本来清いものだから今のあるがままでいいのだと主張します。ともかく、ただただ
坐禅をすればいいのだと、頭で考えるより自然体、これが中国禅の基本となっています。
 この思想は日本の曹洞宗の開祖道元禅師の「只管打坐(しかんたざ、悟りを求めたり想念をはたらかすことなく,ただひたすら坐禅
をすること)」に繋がっていきます。

 仏教の勉強をしていて感じることがあるのですが、それはやはり仏教は実践が基本なのだということです。お釈迦さまも苦行の末に
仏教という思想を創造しています。実践が先にあり、その結果思想が、その理論がと発展してきている気がします。したがって、他の
宗教と違って、理屈では理解できない、観念的な部分をある意味無理やり理論化した部分もあって、一般の人にはなおさら難しいのか
とも思います。
 その点では、禅宗というのはその代表なのかとも思います。西田哲学で有名な、西田幾多郎も禅を実践して、その哲学体系を創造した
ということですから、真の仏教を知るためにはその必要があるのかもしれません。

 と、中国禅だけで、かなり長くなったので、中国浄土は明日以降ということにしたいと思います。



 
 
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