竹取翁と万葉集のお勉強

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遊仙窟の詩文鑑賞 同音字とその比喩が示すもの

2017年12月22日 | 資料書庫
遊仙窟の詩文鑑賞 同音字とその比喩が示すもの

 『遊仙窟』は奈良時代初期に唐から大和にもたらされた艶本伝奇小説です。およそ、万葉集に深く関係する山上憶良が随行した大宝元年(701)第七次遣唐使の帰国時 慶雲元年(704)にそれを持ち帰ったのではないかと推定され、その後の日本文学に大きな影響を与えた作品です。
 当然、遊仙窟は漢文で創作された作品ですので、その文章や詩文などにも漢字が持つ同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示など 多様な表現方法がふんだんに使われています。一般的な遊仙窟の解説では紹介されない、この同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示などの多様な表現方法について、その一部をここで紹介しようと考えます。なお、本文中での女性の美の形容、楼館や室内、衣装、食事、歌舞音曲などの様子を形容する慣例・定型での美辞麗句や古典引用などは判り易い常のものですので、ここでは取り上げません。それは漢詩漢文を専門に研究するお方のテリトリーです。
 弊ブログは『万葉集』を原歌表記から鑑賞し、それを備忘録の扱いでブログとしてアップしています。そうしたとき、漢文鑑賞において同音字関係を理解しないと作品の面白みに触れられないと思っており、それは専門とする人たちの基本認識と思っていました。ところが、色々な文庫本やインターネットなどで紹介されるものを眺めますと、盛唐以降の漢詩に韻を考察することはあっても、漢文章に同音字関係を考察することは稀ではないかと思うようになりました。例えば、『詩経』漢詩の解説で同音字関係から漢詩を鑑賞・解説するものを見つけることは困難です。また、ここで紹介する遊仙窟でも然りですし、万葉集でもそうです。このような状況がありますので、有名な遊仙窟を使い、その文章や詩文での漢字が持つ同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示など 多様な表現方法の可能性を紹介するものです。ただ、ご存じのように弊ブログは正統な教育を受けていない建設作業員が行うブログです。学問的な背景はまったくにありません。あくまで、部外者が行う与太話としてご笑納下さい。ただただ、鑑賞での可能性を示すだけです。
 追記参考として、遊仙窟の原文並びにその訓読については、弊ブログの資料庫に収容していますので「遊仙窟」で検索を行い、参照していただければ幸いです。一般的なネット検索では「遊仙窟 原文」のキーワードで容易に弊ブログのものに接続できます。ただ、その訓読において同音字による比喩や暗示、また、表の意味合いと文中に隠された裏の意味合いをもすべて訓読中に紹介することは煩雑ですし、そのような文才を持ち合わせていません。そのため、訓読では同音字関係を括弧書きにより示唆するだけに留め、訓じは文章表面上のものだけを紹介しています。遊仙窟の本来の楽しみは、ここでその一端を紹介する同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示などの多様な表現方法の存在を認識した上で貴兄の鑑賞に委ねます。

 さて、多様な表現方法において、例えば次に示す文中に同音字による言葉遊びがあります。理解を容易にするために補足しますと、前提として文章は主人公である「下官(げかん)」とその下官に旅の宿を借し、さらに一夜を共にすることになる「十娘(じゅうじょう)」との間で、次第に互いが心を引かれ見詰め合う中で、外見と本心と云う問題について「眼」と「心」と云う詞を使い問答を行う場面でのものです。その二人の言い合いがエスカレートする中、十娘の義理の兄嫁となる「五嫂(ごそう)」が機転を利かせ、二人の言い合いの中での言葉と卓上に置かれた果物の名とを聴き間違えたかのようにしてその言い合いを引き取ります。紹介しますものは、二人の眼と心に関する言い合いと、それを引き取って機転を利かせたときの言葉遊びです。なお、会話で云う「眼」とは目で見える上辺の態度であり、「心」とは目で見ることの出来ない本心を意味します。

<本文>
下官詠曰、忽然心裏愛、不覚眼中憐。未関雙眼曲、直是寸心偏。
十娘詠曰、眼心非一處、心眼舊分離。直令渠眼見、誰遣報心知。
下官詠曰、舊来心使眼、心思眼剰傳。由心使眼見、眼亦共心憐。
十娘詠曰、眼心俱憶念、心眼共追尋。誰家解事眼、副著可憐心。
于時五嫂遂向菓子上、作機警曰、但問意如何、相知不在棗。
十娘曰、兒今正意密、不忍即分梨。
下官曰、忽遇深恩、一生有杏。
五嫂曰、當此之時、誰能忍柰。

<訓読>
下官の詠ひて曰はく「忽然として心裏に愛しみ、覚えず眼中の憐み。未だ雙眼は曲(すなお)に関わらずて、直だ是れ寸心偏(かたむ)くなり」と。
十娘の詠ひて曰はく「眼(ひとみ)と心は一つ處に非ず、心と眼は舊(もと)より分ち離る。直ちに渠(きみ)が眼をして見せしめば、誰か心を報じて知らしめむ」と。
下官の詠ひて曰はく「舊来、心は眼を使はしめ、心の思ふときは眼剰(あまつさ)へ傳ふ。心の眼を使ふに由つて見るや、眼も亦た心と共に憐む」と。
十娘の詠ひて曰はく「眼と心と俱(つまびから)に憶ひ念ふや、心と眼と共に追ひ尋ねむ。誰家(だれ)か事を解する眼ぞ、副(そ)ひ著(な)せる可憐なる心」と。
その時に五嫂、遂ひに菓子の上に向ひ、機警(きけい)を作(な)して曰はく「但だ問ふ意は如何、相ひ知る棗(なつめ)に在らざるか」と。(棗と早は同音で、言葉遊びがあります)
十娘の曰はく「兒(われ)、今、正に意は密なり、忍ばずて即ち梨を分かたむ」と。(梨と離は同音です)
下官の曰はく「忽ち深恩に遇ふて、一生は杏に有り」と。(杏と幸は同音です)
五嫂の曰はく「此の時に當りて、誰か能く柰(りんご)を忍ばむ」と。(柰と耐は同音です)

 後半での表面上の三人の会話は卓上に置かれた果物、棗・梨・杏・柰についてですが、同音文字での言葉遊びでは下官と十娘との互いの感情を暗示させます。この紹介しました文中から一例を示し詳細しますと、五嫂の「相知不在棗」の直接の訓じは「相ひ知る棗(なつめ)に在らざるか」で、卓上の果物の一つを示した言葉です。このままでは前後の会話からすると頓珍漢となりますが「棗」と「早」とは同音字関係ですから聴き様によっては話言葉として「相知不在、早」であり、訓じでは「相ひ知る在らざるや、早(=既に、互いの心情は判ってるでしょうに)」と解釈が出来ます。もしこの同音字の言葉遊びが判らず、ただただ原文を字面のままに読んだのでは、どうして急に卓上の果物の話が出てきたのかが理解が出来ないのではないでしょうか。
 これが唐代の遊郭で遊ぶ風流士が成した遊仙窟と云う作品の本質です。弊ブログになじまれているお方はご承知と思いますが、詩経 衛風「有狐」と云う作品での「淇」と「妓」との同音字関係と同様な技法が遊仙窟でもふんだんに使われていると云うことなのです。つまり、中国文学での基本作文技法と云うことです。文中に引用される定型での美辞麗句の出典由来を研究することも重要ですが、それ以上に同音字関係を研究することも作品鑑賞では忘れることは出来ないと考えます。
 ここで、遊仙窟 本文ではこの同音字の言葉遊びの会話の後に、十娘が梨の皮を剥く場面へと進みます。その梨の皮を剥く場面で詠われるものは以下に「割梨」と云う題を仮に付けた詩文のところで紹介します。ここでは果物名を使った同音字の言葉遊びの会話を通じて下官と十娘とは既に互いに心が惹かれあっていると云う小説での設定と展開を理解してください。

注意事項:遊仙窟は本質的に男女の性交をテーマにした艶本(ポルノ小説・セクシャル小説)です。そのため、遊仙窟の鑑賞は性技などを示す文章を鑑賞することに近似することになります。従いまして、低年齢のお方や性交渉表現に嫌悪を持たれるお方は、ここでの退場を推薦します。

 さて、遊仙窟は若き有望な武人が使いにより出向いた遠い旅の途中で若き戦争未亡人が住む屋敷に一夜の宿を借りることを小説の場と設定する艶本伝奇小説です。この設定において十娘は二十歳にもならないうら若い女性ですが、立場は戦争未亡人ですので男女関係を知らない女性ではありません。亡き夫から十分に男女関係を教えられている成熟した女性と云うことになっています。また、儒教などを背景とする倫理面においても、戦争未亡人たる十娘は旅行く男と一夜の恋に落ちても良いことになりますし、夜が明ければ亡き夫の屋敷を守る十娘と旅行く男との恋は終わることになります。このような前提で以下の詩文の鑑賞を進めていきます。
 最初、遊仙窟に現れる詩文を鑑賞する前に例題を示して同音字の言葉遊びを紹介しました。詩文の始めとして次に紹介しますものは、遊仙窟 本文中では下官を遠来の客として持てなす宴の中で余興として双六をする場面で詠われたものです。
 この双六遊びは賭け事であり、賭けの懸賞品に関して次のような艶なる会話がなされています。十娘が双六で勝ったら賭けの懸賞品である下官と一夜を共にし、下官が勝ったら下官の求めに従って十娘と一夜を共にしましょうという提案です。いづれの結果でも一夜を共にしましょうと云う下官からの艶なる提案です。なお、文中の「輸籌」とは双六勝負での得た数字が大きいと云う意味合い、つまり、勝ちを示します。

<本文>
余答曰、十娘輸籌、則共下官臥一宿。下官輸籌、則共十娘臥一宿。

<訓読>
余の答へて曰はく「十娘、籌(かず)を輸(ま)けなば、則ち下官と一宿を臥せ。下官、籌を輸けなば、則ち十娘と共に一宿を臥せむ」と。

 順序として、紹介する詩文はこのような下官・十娘・五嫂との間での会話が先にあり、その後に詠われています。直接的な詩文の鑑賞において、この詩文中の「脚」は推定で盤双六での初めの位置に置かれた二石で、「腰」は中央の五石を意味すると思われます。つまり、最初は相手が配置した自分から見て後ろとなる二石を攻撃し、次に中央の五石を攻撃すると云う、盤双六の勝負の様子を詠っているのでしょう。しかしながら現在では唐時代に流行した盤双六の本来のルールは判らなくなっており、そのため、詩文中の「脚」や「腰」で示される双六遊びでの言葉の意味は未詳のままです。この盤双六は中国でも日本でも人々が熱狂したと云う博打ですが、そのルールが不明となったため、本来の表となる詩文の意味が判らなくなってしまいました。ただ、下官から既に勝負の結果がどうであれ夜を共にすることを笑いを交えて提案されていますから、詠う詩文の内実は夜の誘いであり、その応答です。

詠局 局(すごろく)を詠う
眼似星初轉、 眼は星の初めて轉(またた)くに似、
眉如月欲消。 眉は月の消えむと欲するが如く。
先須捺後脚、 先づ須らく後脚を捺で、
然始勒前腰。 然して始めて前腰を勒(おさ)むべし
勒腰須巧快、 腰を勒めなば須らく巧(よ)く快(こころよ)かるべし、
捺脚更風流。 脚を捺でなば更に風流
但令細眼合、 但だ細(くはし)き眼を合わせしめば、
人自分輸籌 人も自(われ)も籌(かず)を輸(ま)けること分たむ
(細と戯は同音、眼と艶は同音。輸に盡の意味あり)

 内実において、下官が最初に十娘の輝く眼(=瞳)と新月のような細い眉を詠い十娘が典型的な中国美人であることを誉め、ついで脚から愛撫を始めて性交をしたいと願います。対して十娘は「貴方と性交したら気持ちがいいでしょうし、最初に脚(=陰部)から丹念に愛撫されたらもっともっと気持ちがいいでしょう。そうしたら、貴方と戯れて艶を共にするとその気持ちよさで貴方と私が幾度も交わってから始めてやっと満たされて互いに身を放つでしょう」と詠います。確かに建前の鑑賞では盤双六であり、双六の遊びですが、斯様に内実は違います。互いに夜の営みへの誘い合いを詠います。

 次に紹介するものは最初に同音字での言葉遊びの例として紹介しました卓上に置かれた果実の会話の続きです。それが割梨と云う詩題で紹介するものです。参考で詩中の梨は中国梨でその形状は洋ナシのように枝側の先が尖り、断面、三角形となります。日本の梨とは形が違います。建前ではその枝側の先が尖った梨を十娘が下官から借りた小刀で皮を剥く様子を詠います。

割梨 「梨を割る」を詠う
自憐膠漆重、 自ら憐む膠漆の重んずべきを、
相思意不窮。 相ひ思ひて意は窮まらず。
可惜尖頭物、 惜むべし尖(さき)き頭の物、
終日在皮中。 終日(ひねもす)皮中に在るを。
數捺皮應緩、 數(まね)して皮を捺でなば應じて緩たり、
頻磨快轉多。 頻ぶるに磨すれば快は轉(うたた)る多からむ。
渠今拔出後、 渠(きみ)、今、拔き出して後、
空鞘欲如何。 空しき鞘を如何にか欲(よく)さむ。

 この詩文の前に詠われた双六の詩文では、下官は十娘を抱きたいと願い、十娘は優しく愛撫してから私を抱くなら何度でも抱きなさいという応諾の関係が出来上がっていることになっています。それが前提の詩文です。そのため、最初に下官が詠うこの詩文での尖頭物とは女性の陰核を暗示し、中国梨の枝側の尖りではありません。対して建前では下官から小刀を借りた十娘は小刀を鞘から抜き出して梨の皮を剥く様子を詠います。ただ、内実は違います。下官が「互いに好き合っているのに貴女の女陰は愛撫もされていませんね」と詠うと、十娘は「その皮に包まれ隠れている陰核をやさしく愛撫すると女陰は緩み、さらにやさしくされて表に顕われた陰核をもっと愛撫すると快感は目が回るほどに増すでしょう。そうした私と性交し、気を吐いた陰茎を抜き去った後、それから貴方は私の女陰をどうするの」と尋ねます。つまり、交わりは一度だけかとの事前の問い掛けです。
 この十娘からの問い掛けの答えが次の詩文「破銅熨斗」です。この銅の熨斗とは古代から近世まで使われたアイロンです。片手鍋のような形状で、鍋の部分に火の付いた炭を入れ銅製の鍋本体を暖めてアイロンとして皺展ばしに使います。

破銅熨斗 「破(こは)れた銅の熨斗(のし)」を詠う
舊来心肚熱、 舊来、心肚は熱せり、
無端強熨他。 端無く強ひて他を熨さる。
即今形勢冷、 即ち今形勢は冷えて、
誰肯重相磨。 誰か肯へて重なりて相ひ磨(ま)かむ。
若冷頭面在、 若し冷なる頭の面に在あらば、
生平不熨空。 生平(つね)に空を熨さず。
即今雖冷惡、 即ち今冷惡なりと雖も、
人自覚残銅。 人も自(われ)も残銅を覚(もと)めむ。
(銅は洞と同音)

 遊仙窟は艶本伝奇小説です。そのため詩文「破銅熨斗」の十娘が歌う前半部分は、特段、艶なる要素はありません。ところが下官が歌う後半の「覚残銅」で始めて艶なる要素が出て来ます。もし、同音字において銅が洞であるならば、ここで先ほどの「空鞘欲如何」の答えが出て来ます。つまり、性交で一度、射精をして萎えたとしても他の女とは違い、貴女となら私はさらに貴女を求め性交をしますよとの答えです。つまり、同音字において残銅は残洞であり、萎えた陰茎が去った後の女陰と云う比喩です。
 ここで、遊仙窟は艶本伝奇小説ですから詩文は十娘と下官との詩に分かれていても、全体は作者の詩文です。そうしますと、後半部が十娘との複数回の性交を示唆するのですと前半部分の「無端強熨他」には十娘と下官との性交体位が示されていることになります。およそ、それは十娘が下官の体の下に在り、身の端から端まで下官の体によって展ばされた形、つまり、正常位で行為をすると云うことになります。
 ついで、遊仙窟 本文ではこの詩文「破銅熨斗」の後、再び宴の場面に戻り、宴に集う人々による歌舞の場面を紹介します。そして、歌舞の場面での会話を記述する文中に使われた「便(ときおり)」と云う言葉と別の意味合い「便(たより)」との言葉遊びに小説は展開し、その「便(たより)」から詠筆硯の詩文を詠う場面に遷ります。詠筆硯の詩文の前半、下官が詠う部分は「便(たより)」を記す為に墨を磨る様子です。ただし、使う漢字には色々な意味合いがありますから、取り様によっては非常なる艶があります。

詠筆硯 筆硯(すずり)を詠う
摧毛任便點、 毛を摧(くじ)きて便(おり)に任せて點じ、
愛色轉須磨。 色を愛して轉た須らく磨(と)ぐべし。
所以研難竟、 研(すず)りて竟(おわり)り難き所以は、
良由水太多。 良く水の太(はなは)だ多きに由る
嘴長非為嗍、 嘴の長きは嗍(す)はむを為すに非ずて、
項曲不由攀。 項の曲れるは攀じるに由らず。
但令脚直上、 但だ脚を直ちに上げしめば、
他自眼雙翻。 他も自(われ)も雙つの眼は翻らむ。

 例えば、摧と云う漢字には砕くだけでなく至るの意味があり、磨には摩(さする)の意味があります。また、研は磨に通じます。つまり、この詩文を「女性の柔毛の部分から陰核を愛撫すると、愛液が止め処なく溢れ出てくるから愛撫を止める事が出来ない」と解釈することが出来ます。そのように解釈しますと、十娘が詠う後半部分は確かに硯に使う水差しのようですが、内実は違います。十娘が詠う水差しは「鴨頭鐺子」と云う代物で、中国古典では鴨頭はその頭の丸くずんぐりした形状から勃起した陰茎を示す隠語です。本来の硯水差しの「鶴首鐺子」ではありません。それはおよそ愛撫により愛液溢れた所を鴨頭と云う太く長くそして反り返った陰茎でもって悪戯をすると云うことを示唆し、それも正常位から女性の脚を大きく広げ持ち上げて挿入を行うとします。遊仙窟の作者はうら若い未亡人である十娘にそのような体位で愛されたら気が行ってしまうでしょうし、貴方はしっかりそのような秘所を眺めたいでしょうねと詠わせます。参考として、ここで示す正常位から女性の脚を持ち上げて行う性交体位(屈曲位)は現代の中国でももっともポピュラーなもののようです。およそ、男女和合において盛唐時代から現代まで人の好みはそれほどは変化しないようです。

 本文では詠筆硯の詩文に続けてさらなる艶の詩文を示します。ここでの詩文の酒杓子は現代では三々九度のお酒や御屠蘇を注ぐときに見られる杓子です。その柄を除いた部分の形状をまず想像して下さい。それは伸びた陰茎と丸く膨らんだ睾丸を示唆します。また、爵(さかずき)は杓子との組み合わせで、酒杓子が男根の比喩ならば爵はそれを受け入れる女陰です。

詠酒杓子 酒杓子(しゃくし)を詠う
尾動惟須急、 尾の動くとき惟だ須らく急なるべし、
頭低則不平。 頭の低くするは則ち平らかならず。
渠今合把爵、 渠(きみ)、今、爵(さかずき)を合ひ把るべくは、
深淺任君情。 深淺は君が情(なさけ)に任す。
發初先向口、 初めて發して先ず口に向ひ、
欲竟漸昇頭。 竟(おは)らむと欲して漸(ようや)く頭に昇る。
従君中道歇、 君に従ひて中に道(おさめ)むを歇(や)み、
到底即須休。 底に到りて即ち須(やくや)く休(や)むべし。

 詩文 詠酒杓子は、性交での陰茎の動きを「深淺」と云う詞が代表するように直接的に示します。古代の有名な性交手引書とも称される医心方 房内ではその行為での男の動きについて「疏緩動搖、八浅二深」を推薦しますが、ここでの十娘の求めは「任君情」とします。なお、「深淺」の意味合いから詩文中の「向口」の口は膣口部で、「昇頭」の頭は子宮口と解釈します。およそ、詩文からしますと行為は最後に子宮口を突くほどに女陰の奥深く挿入し、射精して果てるとします。
 さらに本文では飲食と歌舞を伴う宴の後、下官・十娘・五嫂たちは園庭を散策し十娘の寝所へと向かう場面を描きます。その寝所への途中、庭に雉が現れ、それを下官が弓で仕留めます。建前において詩文 詠弓は雉を一矢で仕留めた下官の腕前を詠います。建前で詩文の弓は弩であり、和弓ではありません。弓弦の引き方や射撃の方法は西洋弓に似たものがあります。建前での鑑賞では句「若令臍下入」は腹に弩を押し当て矢を番える様を示します。他方、内実において「弩」が大きなる陰茎としますと「低頭」は「抬頭」に対する詞において射精後の萎えた姿です。つまり、「低頭」は下官が弓で獲物を射るまで獲物に気づかれないようにと十娘が頭を下げ身を潜めると云う直接の意味合いではありません。このように詩文は建前では弓の形状・種類から、内実では示した比喩において鑑賞する必要があります。

詠弓 弓を詠う
平生好須弩、 平生に好みて弩を須(よく)し、
得挽即低頭。 挽くことを得て即ち頭を低くす。
聞君把提快、 君が把提の快きを聞き、
更乞五三籌。 更に五三の籌(はかりごと)を乞はむ
縮幹全不到、 縮まれる幹は全く到らずも、
抬頭剰大過。 頭を抬(もた)げて剰(さら)に大いに過ぐ。
若令臍下入、 若し臍下をして入らしめば、
百放故籌多。 百たび放たば故に籌(はかりこと)は多からむ。

 この十娘が詠う詩句「聞君把提快、更乞五三籌」の内実は「貴方が私との行為が気持ち良かったのなら、もっともっとその行為を為して下さい」との直接的なおねだりです。対して下官が詠う「幹」は陰茎であり、萎えれば行為は出来ないが再び回復して陰茎の頭が抬げれば何度でも出来るとします。一応、十娘が求める回数は五三の十五回ですが、応える下官は百回とします。まず、女の期待以上に和合を為すとの無謀な宣言です。
 本文は斯様に十娘の寝所に入るまで、宴の最初から終わりまでの間、十娘と下官との間で交わされた際どい艶詩を載せます。当然、この艶詩で示唆する男女の行為がこれから十娘の寝所で行われるであろう十娘と下官との行為の内容を暗示します。

 遊仙窟は同音字や比喩を利用し男女和合の作法を具体的に示唆します。ここまでの様子からしますと二人の閨での様子についてどのように詳しく紹介するのかと期待が膨らむでしょう。ところがところが、本文では次のように二人の行為を紹介するのみで、詳しい様子は示しません。実にあっさりしたものです。逆に見ますと、閨に入るまでに詠われた詩文によって二人が為すであろう行為の具体的な様子は既に示唆されていることになります。ただし、それは現代ポルノ小説からしますと非常にオーソドックスな男女の営みの所作です。
 他方、遊仙窟と云う小説は唐代初期に営業していた遊郭への登楼手引書ではないかとの評論があります。そのような視線から遊仙窟を読み返し、客が初めて遊郭に登楼を為し、初手の妓女と会った場面を想定しますと、本文中で示す宴での所作や寝所での性行為での作法はなるほどと思えるようなものです。そうしますとこの遊仙窟は客であっても性行為において妓女が十分に貴方との性交を楽しむように振る舞いなさいと示唆していることになります。男自身の好みであっても初手の妓女とはいきなり変則的な体位で行うなと云うことです。およそ、唐代初頭と云う時代においても、その時代人が考える風流人とは遊仙窟の本文に示す詩文や歌舞音曲で遊びが出来るだけでなく、遊郭の妓女であっても相手の女性を十分に楽しませることが出来るような人物と云うことでしょうか。ここで脱線しますが、遊仙窟が登楼手引書としますと詩文「破銅熨斗」での句「誰肯重相磨」や句「生平不熨空」からすると、一般的な遊郭での妓女との性交渉は料金体系的に一回だけの回数制限制度だった可能性があります。特別な上客と個人の部屋を持つ妓女だけが朝まで床を共に出来たのでしょう。これは日本ですと江戸期吉原で代表されるものと似たところがあります。ちなみに遊仙窟の十娘を吉原遊郭での太夫とみなしますと、十娘には桂心と芍藥という名を持つ女中が付き添っていますから、この二人はある種の禿(かむろ)に相当します。このように遊仙窟は色々なことを示唆してくれます。
 参考に、万葉集からしますと、奈良時代、この遊仙窟は男女を問わず貴族たちのバイブルでしたし、教養です。可能性として当時の貴族たちはこの本文に載るものは実行・研究していたのではないでしょうか。また、性行為の実践手引書となる医心方房内もまた奈良時代の貴族たちの必須教養です。そのような男女の閨での様子を直接に詠う歌が万葉集にありますので、二首ほどを紹介します。閨の中で女は積極的に色々なやり方で和合を為すことを男にねだっています。

集歌2949 得田價異 心欝悒 事計 吉為吾兄子 相有時谷
訓読 うたて異(け)に心いぶせし事(こと)計(はか)りよくせ吾が背子逢へる時だに
私訳 どうしたのでしょう、今日は、なぜか一向に気持ちが高ぶりません。何か、いつもとは違うやり方を工夫してください。ねえ、貴方。こうして二人が抱き合っているのだから。

集歌3465 巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
訓読 高麗錦(こまにしき)紐解き放(さ)けて寝(ぬ)るが上(へ)に何(あ)ど為(せ)ろとかもあやに愛(かな)しき
私訳 高麗錦の紐を解き放って、お前と寝る。それ以上に、お前は何をしろと云うのか。とても、かわいいお前よ。

 最後に遊仙窟での十娘と下官との一夜の様子を以下に紹介します。訓読と語字の解説から二人の行為の様子をここまでの詩文解説と併せて想像して下さい。なお、文中、女中の名の桂心と芍藥は漢方の薬草で、ある種、精強剤となるものです。つまり、艶本特有の洒落からの名前です。

<本文>
于時、夜久更深、情急意密。魚燈四面照、蠟燭両邊明。十娘即喚桂心、並呼芍藥、與少府脱靴履、疊袍衣、閣幞頭、掛腰帶。然後自與十娘施綾被、解羅裙、脱紅衫、去緑袜。花容満目、香風裂鼻。心去無人制、情来不自禁。插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏痠痜、心裏結繚。少時眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間數廻相接。誰知可憎病鵲、夜半驚人、薄媚狂雞、三更唱曉。遂則被衣對坐、泣涙相看。

<訓読>
その時、夜は久しく更(よる)は深け、情は急(せま)り意は密なり。魚燈は四面を照らし、蠟燭は両邊を明るくす。十娘の即ち桂心を喚び、並た芍藥を呼びて、少府と與に靴履を脫ぎ、袍衣を疊み、幞頭を閣き、腰帶を掛けしむ。然る後、自ら十娘と綾の被を施(ゆる)め、羅の裙を解き、紅き衫を脫ぎ、緑の袜を去る。花容は目に満ち、香風は鼻を裂く。心は去りて人の制する無く、情は来たりて自ら禁ぜず。手を紅き褌に插み、脚を交わして翠(ひたれ)を被ふ。両唇は口に對へ、一臂は頭を支ふ。奶房の拍搦せし間、髀子の上を摩挲す。一齧一快の意、一勒一傷の心、鼻の裏は痠痜(いきはだ)しく、心の裏は結繚れり。少時にて眼は華き耳は熱し、脈は脹(ふく)れ筋は舒(の)ぶ。始めて知るぬ逢ひ難く見難くして、貴むべく重んずべきを。俄頃(しばし)の中間(あひだ)に數(まね)く廻(もど)りて相ひ接す。誰か知らむ憎むべきの病鵲、夜半に人を驚かし、薄媚の狂雞、三更に曉を唱ふ。遂に則ち衣を被り對坐して、泣涙して相ひ看む。

<補足として語字の解説>
 施綾被;「施」はゆるめると訓じるが、相手に委ねると云う意味もあり、男の手で被を取り去るというさまを示す。
 交脚翠被;「翠」とは鳥の尾の脂肉を指し、ここでは女の柔らかな下腹部を示すため、女陰部を男の脚を交差させて覆うさまを示す。
 両唇對口;互いの唇を合わせること。口付け。
 一臂支頭;片手を相手の頭に添える。ここでは男の頭に手を添えるさまを示す。
 拍搦奶房間;両手で女の乳房をからめ取るさまから、両手で行う乳房への愛撫を示すが、文章からは拍搦奶房と摩挲髀子とを同時に行っているとも解釈できるので、ここでは片手での愛撫とする。
 摩挲髀子上;「挲」は手を水につけてすすぐように動かす、「髀子」は脚の付け根を示すことから、女陰又は陰核への手または指による愛撫のさまを示す。
 一齧一快意;対句表現での「拍搦奶房間」から判断して、女の乳首を甘噛みし、それに対して女が好ましい気持ちを起こしたさまを示す。
 一勒一傷心;対句表現での「摩挲髀子上」から判断して、交接での陰茎の挿入と、それにより女陰が押し開くさまを示し、そのときの感情のさまを表す。なお、口にくわえさせるを意味する「勒」に対して「傷」に開くと云う意味合いを持たすが、同時に交接を行った行為での痕と云う意味合いも示す。
 鼻裏痠痜;鼻が興奮により膨れ疼くさまを示す。
 心裏結繚;心の内が千路に乱れて絡み合うさまを示す。
 眼華耳熱;目は見開き、耳は熱を帯びると興奮したさまを示す。
 脈脹筋舒;陰茎が興奮により血管を浮き出させ脈動し、太長く膨張したさまを示す。
 數廻相接;「數」は数多いさま、「廻」は元に戻るさまを示すことから、射精後の陰茎の回復に任せて数多く交接を重ねたさまを示す。

 最後に主人公の名称「下官」は朝廷に使える武官としての一般名称と考えられますが、対して十娘と五嫂の名称は『玉房秘訣』などに載る「五徴十動」からの大人の洒落かもしれません。

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