竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二一五 今週のみそひと歌を振り返る その三五

2017年05月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一五 今週のみそひと歌を振り返る その三五

 今回は奈良時代と平安時代以降の貴族たちの船に関する感覚について遊んでみます。
 まず、飛鳥時代、舒明天皇から天武天皇の時代、大和の軍勢が朝鮮半島へと出兵する作戦能力に疑問を持つ政治家はいません。日本書紀には、その出兵の結果、天智天皇の時代、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に百済・大和連合軍が大敗したと記録します。この時、大和軍は百済方面と新羅方面との二方面軍(約四万人規模)を派遣していますから、それだけの軍勢に対する安定した渡海能力はあったと云うことになります。推定で大和軍は「新羅船」と称される30-40人乗りの外洋帆走船で渡海をしていたと思われます。対して、一隻120~150人を運んだとする遣唐使船から比べますと相当に小さいと云うことに成ります。研究では遣唐使船は船長が30mで積載能力150トン積(=八百石積)ほど、新羅船は船長が15mで積載能力40トン積(=二百石積)ほどであったと推定します。これは共に室町から江戸初期の弁財船相当の船級に括られるものです。しかしながら、船体重量等からして、従来、想定しています魯走などではありません。船舶工学や操船術からしますと弁財船と同じように莚帆を使用した帆走です。
 参考として、大和朝廷と新羅など朝鮮半島との政治的軋轢が無い時代は、日本と唐との交通路は新羅等の了承の下、朝鮮海峡から朝鮮半島西岸を北上し、山東半島を渡るルートを使用し、その後、大陸沿岸を南下して淮水を通じて大運河に入ったと思われます。この交通ルートに対し朝鮮半島との政治的軋轢が生じた時代は、遣唐使船は九州から一気に会稽沿岸を目指し、東シナ海を横断します。遣唐使船の海難事故の大半はこの東シナ海横断時に発生し、朝鮮半島ルートでは発生していません。遣唐使が命がけの渡航であったのは技術レベルと自然条件を無視し、政治だけで物事を処理した結果です。実質最後の遣唐使大使となった藤原常嗣は帰国に際し、新羅船を使用して朝鮮半島経由で無事に帰国しています。(新羅船十隻にて帰国、九隻は無事、一隻は大隅方面に漂流・漂着)なお、天平年間以降は新羅との関係は特に険悪になっています。
 このような背景を知らずに万葉集時代の船の歌を楽しむことは出来ません。

 そうした時、次の歌を見て下さい。船と云うものを考えますと、二句目の「棚無小舟」と云う言葉が重要です。

集歌930 海末通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取尓 梶音所聞
訓読 海(あま)未通女(をとめ)棚無し小舟榜(こ)ぎ出(づ)らし旅の宿りに梶し音そ聞く
私訳 漁師のうら若い娘女が、側舷もない小さな船を操って船出をするようだ。旅の宿りを取る部屋にその船を操る梶の音だけが聞こえる。

 船で「棚」と云う言葉は「刳り船の船べりに、耐波性や積載量を増すために設けた板」を意味します。つまり、棚を持つ船とは丸太をくり抜いて造った丸木舟に竪板や、舷側板等の部品を組み合わせた準構造船という大型船を指します。そして、近年の実験航海などから準構造船クラス以上の大型船はその重量・波抵抗・潮流などから海上では魯や櫂による走行は困難で、帆走だったであろうと結論付けられています。
 およそ、集歌930の歌が詠う世界は、船べりの板を持たない小さな刳り船を漁師の娘が帆を使って操り、沖へと船出している風景と云うことになります。漢字の「榜」と云う文字は「進船也」と説明されますが、同時に「榜示」と云う言葉は公告・公示と説明されるもので棒を立て、その棒に告示を掲げる様を意味します。つまり、「榜」と云う漢字には船柱と似た姿があるのです。
 また、「梶」は船を操舵するもので、時に「梶」は「舵」であります。なお、「梶」には木梢と云う意味があり、ここから棒梶、棒梶は竿櫂と同じから船を進める意味が含まれるともします。船に関しては広い意味を持つ文字です。
 その「梶」に注目して次の歌を鑑賞します。ここで「梶」は船を操舵するものと解釈しています。水深の浅い川で舟を漕ぐ竿櫂とは解釈していません。ここが奈良時代の解釈と平安時代以降の解釈との相違があります。

集歌934 朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信
訓読 朝凪に梶(かぢ)し音(ね)そ聞く御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の船にしあらし
私訳 朝の凪に梶の音だけが聞こえる。御食を奉仕する国の野島の海人の船の音らしい。

集歌936 玉藻苅 海未通女等 見尓将去 船梶毛欲得 浪高友
訓読 玉藻刈る海(あま)未通女(をとめ)ども見に行かむ船梶(ふなかぢ)もがも浪高くとも
私訳 玉藻を刈る漁師のうら若い娘女たちに会いに行こう。船やそれを操る梶があるならば、浪が高くとも。

 万葉集では「真梶繁貫」と云う言葉が示すように「梶」を梶穴に挿し込み準備をする様は大船の出港準備が整い、今、出港する姿をイメージさせる言葉です。その様からしますと、集歌934の歌において難波の離宮で山部赤人が梶の音を聞いたとしますと、夜釣で得た獲物をそのまま明石の野嶋から難波離宮へと御食となる魚を漁師が運んで来て、その運んで来た船の梶を入り江で停泊するために引き抜き準備して様と云うことになります。出港ではなく、入港と云うことです。
 他方、集歌936の歌は播磨國の印南野での風景を詠うもので、「真梶繁貫」と云う言葉に似、目の前に見える漁村の小ぶりの舟ですが、その浜に引き上げられている舟が梶などの準備が出来るなら、出かけて云ってうら若い女性に逢いたいものだというものになります。
 歌には景色は明確には見せませんが、言葉とその当時の様子を想像すると、もう少し、歌に風景が増すようです。

 今回は船に関係する言葉で歌に遊びました。
 平安時代は屋敷の内に苑池を設け、さらには塩焼きの景色までを再現しましたし、人々の行動範囲は宇治や近江大津程です。一方、奈良時代は実際に天皇以下、宮中の人々は、東は三河や伊勢、西は播磨までは行動範囲でしたし、大船や騎馬での旅行も経験しています。平安時代と奈良時代では宮中の女官たちの経験度合いはまったくに違います。舟と云うものも、苑池に浮かべる舟なのか、紀伊半島を航行する大船なのかを知る必要があります。奈良時代の大船の感覚は最低でも新羅船の15mほどの船を指し、平安時代では4mほどの苑池の舟です。
 このような感覚を下に、歌で遊びました。これもまた酔論ですし、馬鹿話です。

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