竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百六五 「隋書倭国伝」と云う漢文で遊ぶ

2016年04月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六五 「隋書倭国伝」と云う漢文で遊ぶ

 申し訳ありません。今回は万葉集とは全くに関係ありません。「隋書倭国伝」と云う文章で遊んでいます。

 この「隋書倭国伝」は正式には「隋書卷八十一列傳東夷傳俀國」ですが、「俀(人+妥)」と云う文字が特殊文字と云うこともあり、漢字の発音と意味はまったくに違いますが、ここでは伝統と便宜上、「隋書倭国伝」とさせて頂いています。なお、「俀」は現代漢語では「tuǐ」と云う発音ですが、古く「俀」は「妥」と同音であり、この「妥」は「宋本広韻」からしますと中国中古音では「tʰuɑ」と発音していたとします。つまり、日本で倭国を「わこく」と訓じることは、中国語や漢籍などの研究からしますと大陸に根拠を持たない日本独自の和訓となります。それに地域を明示する国名としては「倭」一字ですから、中国から見た当時の地域名称は「俀=tʰuɑ」ということになります。このような背景があるためか、近年の中国中古音の研究から倭国を「わこく」と訓じるのは、どのような根拠か、また、どうして倭国と表記したのかと云う研究が活発化しているようです。参考として、「大和(やまと)」と記してその「和」と云う文字を「ト」と訓じるのは、時に中国中古音の「俀=tʰuɑ」が由来なのかもしれません。
 さて、国名や地域名称の訓じ問題を脇におきまして、この大陸側の歴史資料である「隋書倭国伝」は、日本側の歴史資料である「日本書紀」とで対比・検討が出来る記事が載るために素人歴史好きには非常なる好物であります。当然、素人歴史好きにとっての最大な好物は「魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(俗称、魏志倭人伝)」でありますが、「隋書倭国伝」は「魏志倭人伝」に対して冷淡な態度を取ります。まず、「隋書倭国伝」は倭国の位置を「倭國在百濟・新羅東南水陸三千里、於大海之中依山島而居」と朝鮮半島北部に位置する帶方郡から三千里(律令「里」で約1600㎞、平壌‐奈良橿原神宮の鉄道距離が約1300㎞)の位置とします。一方、「魏志倭人伝」は「自郡至女王國萬二千餘里」とします。ただ、この「魏志倭人伝」は女王國の支配地である末盧國までを帶方郡から一万余里(到其北岸狗邪韓國七千餘里+千餘里至對海國+南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國+又渡一海千餘里至末盧國)としますから、差引計算して末盧國から女王國までは二千里足らずと云うことになります。一方、隋帝国の人々は現実の朝鮮半島の大きさや帶方郡から大和国飛鳥豊浦宮までの実際の道程を知っています。さらに、大和国飛鳥豊浦宮には高麗、新羅、百済などの人々も遣倭使として来朝していますから、隋使一行は創作文章的な出鱈目な道程を記録する訳にもいきません。およそ、世界の東端ですが当時においても大和国飛鳥豊浦宮は国際都市でもあったのです。実際、「日本書紀」には隋使一行の難波での滞在場所を「更造新館於難波高麗館之上」と記録し、高麗国の宿舎の近隣に置いたとします。また、冊封体制での統治者の正統性を確認することから推古天皇の大和国飛鳥豊浦宮での、これまでの政治体制変遷の歴史と大陸に残る倭国の歴代の統治体制を確認したと考えます。
 およそ、隋帝国やその後の唐帝国の人々から見たとき、「魏志倭人伝」は信頼のおける資料ではないということになるか、対象となる倭国自体が違うということになります。そこで「隋書倭国伝」は「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」と「古(いにしえ)にはこのように云った」とあっさり流します。

 その「隋書倭国伝」につぎのような文章があります。

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望聃羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見、

 一方、「日本書紀」では次のように記述しますから、「隋書倭国伝」は文章を端折って記述していることになります。

推古天皇十六年(六〇八)六月十五日の条;六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。
推古天皇十六年(六〇八)八月三日の条;秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。
推古天皇十六年(六〇八)八月十二日の条;壬子。召唐客於朝庭。

 およそ、「隋書倭国伝」に云う「又經十餘國、達於海岸」とは難波津のことですし、「後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都」の一節は八月三日に海石榴市衢を経由して飛鳥豊浦宮の宿舎に入り、八月十二日に飛鳥豊浦宮で隋の遣倭使が登朝したことを示しています。「倭王遣小阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎」に対するものが日本書紀では「遺飾騎七十五疋、而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告礼辞焉」となっていますから、騎上の大夫格の人々が七十五騎ほどいて、その従者を含めると數百人の人数であったと思われます。
 このように「隋書倭国伝」と「日本書紀」とを比較検討することで、当時の様子が判ります。例えば、飛鳥豊浦宮へは朝鮮半島から対馬(都斯麻國)、壱岐(一支國)、筑紫(竹斯國)、不詳(秦王國)、難波津(達於海岸)を経ることになっています。また、「日本書紀」からしますと難波津からは大和川を利用して海石榴まで船を利用したものと思われます。
 こうした時、歴史における道後温泉の話題、万葉集での額田王や柿本人麻呂たちの歌などから推定しますと、古代の筑紫―難波津の航路は朝鮮海峡などの外航航路を行く大型船での瀬戸内海南岸ルートを使ったと思われます。つまり、筑紫―伊予―讃岐―播磨―明石―難波津のようなものと推定されます。
 すると、古代歴史好きは、この秦王國を、同時代性下での聖徳太子と秦河勝の関係を思い浮かべ、播磨国、それも兵庫県赤穂市付近の赤穂郡と推測し、その根拠を秦河勝に代表される秦氏一族の地ではないかと考えます。赤穂市には秦氏の氏神神社である大避神社(おおさけじんじゃ)が古くから祀られ、秦氏一族の勢力を窺わせます。従いまして、ここで隋からの遣倭使である裴清たちが播磨国赤穂郡にある秦一族の屋敷に数日間ほど滞在したとしますと、秦漢時代の古語中国語が残る秦(はた)の王(こにしき)の郷(=國)と認識したかもしれません。この倭語である「はたのこにしきのくに」を漢語文字で示せば「秦王国」でしょうか。
 このように「隋書倭国伝」と「日本書紀」や日本に残る伝承や遺構などからすると、非常に相性の良い歴史資料です。この非常に信頼性のある「隋書倭国伝」は「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と明記します。ここで、推古天皇が治めた大和国飛鳥豊浦宮となる、その都の中国語名称である「邪靡堆」に対して「宋本広韻」から隋唐時代の発音を探りますと「邪」はjĭa又はzĭa、「靡」はmie̯又はmǐe、 「堆」はtuɑ̆i 又はtuɒi と発音するようです。「邪靡堆」は「ジャメイツィア」とでも発音したのでしょう。乱暴ですが「ヤマタイ」と解釈しても良いようなものになります。ちなみに「邪馬臺」の「馬」はma、「臺」はdʱɑ̆i 又はdɒiです。「邪馬臺」は「ジャマダイ」ですから、これらから「ヤマト」と云う呼び名は得られません。先に紹介した「俀」を大陸人はtʰuɑと発音していたと推定されるのと同じように、ずいぶんと古代史の景色が変わって来ます。
 なお、弊ブログでのインターネット調べからしますと、「隋書倭国伝」に記されている隋唐音(中国中古音)漢字の発音は「宋本広韻」などにより推定が可能のようですが、後漢・三国時代となる漢音(中国上古音)の復元・推定は困難なようですし、標準的な音を示す研究も道半ばのようです。つまり、「隋書倭国伝」に載る漢字翻訳された異国の地名や人物名などは「宋本広韻」などにより推定が可能ですが、「魏志倭人伝」に載る異国の地名や人物名などはどのように発音して良いのかは不確定な状態にあります。現在に「魏志倭人伝」で議論をしているものは、あくまで現代日本語での発音などがベースであって、「魏志倭人伝」を記録した当時の中国人がどのように発音していたかは議論の外にあります。例えば、「魏志倭人伝」は女王国を「邪馬壹」と呼んでいて、この「壹」の中古音は「ʔi̯ĕt」であり、案として示されている上古音はqlidです。一方、現代中国音は「yī」で日本人には「イ」のように聞こえるものです。そこから「邪馬壹」を「ヤマイチ」と読むというおかしな説が誕生します。参考に案としての上古音では「邪」はlja又はlaであり、「馬」はmraではないかとされています。推定される後漢・三国時代となる漢音(中国上古音)からしますと「邪馬壹」は「ヤマタイ」とか「ヤマイチ」と訓じることは出来ません。中国古音の研究からしますと、これらの呼称は現代日本語からの訓じでしかないことになります。
 もう少し、
 国名の倭国について、「隋書俀国伝」では「俀」の表記で、「魏志倭人伝」では「倭」の表記です。「俀」は「妥」と同音字で現代中国語ではtuǒ、中古音ではtʰuɑ、上古音ではn̥ʰoːlですが、一方、「倭」は現代中国語ではwō、中古音ではʔuɑ、上古音ではqoːlです。可能性として上古音では「俀」のn̥ʰoːlと「倭」のqoːlとが近接している発音であり、また、隋国の遣倭使である裴清一行が現地で聞いた発音から隋書では「俀」と云う漢字を当てた可能性があります。
(注意:日本での中国発音研究の歴史から、日本だけの術語として末唐から宋時代以降の言葉を唐音、隋・唐時代の言葉を漢音と称します。これでは国際的な研究には不都合と云うことで、別な術語として秦・漢時代の言葉を中国上古音、隋・唐時代の言葉を中国中古音として区分するようです。)

 まぁ、日本での歴史や文学研究と云うものは、こんなものです。真面目に中国漢籍は中国人により作成されたものであると云うテキスト読解の基本に立ち戻りますと、穏やかな井戸の水面に石を投げ込むようなことになってしまします。弊ブログの主体である万葉集の記事でも紹介していますが、日本のこの方面の研究者は伝統や先人研究への読書は熱心ですが、その伝統や先人たちが科学的立場で研究をしていたのかと云う検証面はどうかと思える面があります。現在日本語発音を基準に隋・唐時代の漢籍の発音研究を行うことは非常識ですが、万葉集の歌の訓じや今回に紹介しました歴史書では普通のこととして行われている面があります。不思議です。

 おまけとして、「ヤマト」についての馬鹿話
 平安時代初期の書物である「古語拾遺」に「以爲職号曰蟹守、今俗謂之借守者彼詞之轉也、(以つて職と爲す、号して曰く、蟹守。今の俗に借守と謂ふはかの詞の轉(なまり)なり)」と云う文章があります。また、前期平城京時代の書物である「日本書紀」に「因以名為浪速国。亦曰浪花。今謂難波訛也。訛、此云与許奈磨盧。(よりて、名を浪速(なみはや)の国と為す。また曰く浪花(なみはな)。今に難波と云うは訛りなり。訛は、これをなまりと云う。)」と云う文章を見ます。およそ、口実伝承されてきた歴史が万葉仮名と云う漢字文字と漢語を駆使して日本語の物語などが文章化された時代に、ある一定の日本の古い時代の言葉が口調や発声などの要請から当時の言葉に置き換わって来ていたようです。律令体制の成立に従い、奈良の都には日本全国から多くの人々が定期的に行き来するようになってきました。これにより閉鎖的な社会空間が解放され、時に明治維新のような、全国の人々に発音しやすい日本語標準語のようなものが生まれて来たのではないでしょうか。これを窺わせるものとして、万葉集では東国方面にゆかりを持つ東歌や防人歌に分類される歌に方言的要素を含むものがありますが、東海以西の出身者や西国方面出身者が詠う歌には方言的な要素は見えません。飛鳥浄御原宮から藤原京時代ごろまでには和歌を詠うような全国の知識階級では標準語的なものが確立していたと推定されます。
 これらの馬鹿話を踏まえまして、隋からの遣倭使である裴清たちが記録した飛鳥豊浦宮時代の「邪靡堆(ジャメイツィア)」と云う言葉は、前期平城京時代に成立した「日本書紀」や「古事記」、また、その時代に詠われた歌を集めた「万葉集」などでは「大倭」「夜摩苔」「夜麻登」「耶馬騰」「椰磨等」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等」「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」「山跡」などと記しますから、この時代までに「ヤマト」と云う言葉に「訛り」として変化していたのではないでしょうか。
 なお、「大和」と云う表記の根拠については勉強中です。
 少ない可能性として、新しい時代の日本語として「夜摩苔(ヤマト)」と云う音字表記の言葉が「邪靡堆(ジャメイツィア)」の訛りとして生まれ、これに旧来の漢籍史書での「倭」と云う表記を漢語表記での当て字として使い、さらに立派と云う形容詞的に表現で「大倭」となったと考えます。さらに「日本書紀」の編纂時代に独立国家と良字選択と云う思想から「倭」と云う言葉の漢音発声ʔuɑの同音に類似する「和(ɣuɑ)」と云う文字を独立国家にふさわしい良字として当てたのではないかと夢想しています。およそ、このようにして独立国家としての「大和」と云う国名が生まれ、地域名称としては旧来の「大倭」と云うものが奈良盆地一帯を示す言葉として残ったのではないでしょうか。

 参考として、万葉集での漢字を漢語の立場から解釈しますと、「娉」と云う漢字文字の解釈は奈良時代と平安末期以降では全くに違います。弊ブログでは何度も説明していますが、「娉」と云うものは高貴な人を儀礼に従って訪問する時の特別な漢字文字で、標準的な訪問では「聘」と云う方を使います。(娉 問也。凡娉女及聘問之禮古皆用此字。娉者、專詞也。聘者、氾詞也。)従って、直接には婚姻や妻問いのような意味合いはありません。ただし、現代の日本の漢字の専門家でもHP「新華書店」の「娉」と「聘」との記事に見られるように、「よばう」と訓じた後に日本語として「娉」を「呼ばう」や「夜這う」と解釈するようです。そこには先の「倭」と云う漢字文字の発音解釈と同様な実態があるようです。

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)ば君し名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。

 今回は万葉集を離れ、「隋書倭国伝」と云う漢文で遊びました。万葉集について期待されたお方には、実に申し訳ありませんでした。反省する次第です。


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