竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百八六 今週のみそひと歌を振り返る その六

2016年10月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八六 今週のみそひと歌を振り返る その六

 今週、鑑賞しました歌々には万葉集中でも難訓とされているものが多く含まれています。当日の鑑賞では原歌表記、その訓じと私訳を、さらりと載せただけですので、お気づきかどうかは判りません。ただ、何かの機会に鑑賞の背景を知って頂ければ、幸いです。

 参考の為に、一般に難訓とされるものを弊ブログでの提案を再掲します。

集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
訓読 鳥(とり)翔(か)けり通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
私訳 霊魂かのような鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、今に生きる人は、昔、ここで何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、その言葉の響きのような神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。

集歌160 燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
訓読 燃ゆる火も取りに包みに袋には入(い)ると言はずやも面(をも)智(し)る男雲(をくも)
私訳 あの燃え盛る火であっても、(火鼠の皮衣の説話では)取って包んで袋に入れると云うではありませんか。ねぇ、顔の毛穴までもが見ることが出来るほど輝いている貴方。


 さて、少し、視線を変えて、歌は明確に訓じられているのですが、歌自体が不審とされるものがあります。それが、次の組歌です。標題と左注を含めて紹介致します。

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
標訓 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大来皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて御(かた)りて作(つく)らしし歌二首

集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
試訓 現世(うつそみ)の人にある吾(あ)や明日よりは二上山を汝(な)背(せ)と吾が見む
試訳 もう二度と会えないならば、今を生きている私は明日からは毎日見ることが出来るあの二上山を愛しい大和に住む貴方と思って私は見ましょう。

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
試訓 磯し上(へ)に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君し在りと言はなくに
試訳 貴方が住む大和から流れてくる大和川の岸の上に生える馬酔木の白い花を手折って見せたいと思う。それを見せるはずの貴方が「ここに居るぞ」と言わないのだけど。

右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。
注訓 右の一首は今(いま)案(かむが)ふるに、移し葬(はふ)れる歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京(みやこ)に還りし時に、路の上(ほとり)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作れるか。


 まず、歌の標題からしますと組歌二首は大来皇女が大津皇子の死を悼んで詠った歌となっています。
 一方、大来皇女と大津皇子とは同母姉弟ですから、古代の忌諱からして建前では二人の間に恋愛感情はあってはいけないことになっています。建前における可能性として兄妹愛だけです。ところが、集歌165の歌の「汝背登吾将見」や集歌166の歌の「令視倍吉君之 在常不言尓」の表現に、古くから男女関係の臭いを嗅ぐとします。
 組歌二首は葬送儀礼に出席して奉げた挽歌ではありません。ある一定の時間の経過や距離的隔離を持っての哀傷歌です。つまり、歌には私的感情だけで詠われており、挽歌のような葬儀参列者の感情を代表するような歌ではありません。そのような私的感情だけの哀傷歌に「汝背」と云う表現を使うことは非常にキワドイと云うのが伝統の鑑賞です。そのためか、集歌166の歌の左注に「右一首今案、不似移葬之歌」と云う不審の言葉を載せるのです。それに大来皇女が飛鳥浄御原宮や藤原京近辺に居住していたのでは、二上山を眺めることは出来ません。
 これについて一案として、次のような考え方があります。
 王族の子は生まれて、すぐに母親の手から離れ、乳母や壬生により養育されるため、兒は知識として父親や母親を知っているだけとします。兄弟でも同様でそれぞれが同居する関係ではありません。それぞれが別々の屋敷で養育され、行事があれば会うと云う関係です。つまり、知識と書類上での家族関係と云うことになっています。さらに慣習では同じ父親の兒であっても、母親が違えば別一族の兒と云うことで兄妹関係であっても婚姻は忌諱ではありません。それならば知識上での兄妹関係なら同母兄妹関係であっても恋愛の可能性はないのかと云うと、その可能性は否定出来ません。代表的なところでは古事記や日本書紀には木梨軽皇子と軽大娘皇女との兄妹恋愛の伝承があります。慣習では忌諱ですが、同母兄妹関係での恋愛は有り得る事例でもあったのでしょう。そのような関係からの大来皇女による大津皇子への哀傷歌と云う考えです。
 他方、大津皇子に注目しますと、大津皇子は草壁皇子と皇位を争って負け、殺された皇子です。それも同じ父親の兒で母親同士は同母姉妹ですから身分の格は同じです。生まれ年が草壁皇子の方が一年早いとされているだけです。万葉集にはその大津皇子に、葬送の挽歌がありません。大津皇子は父親大海人皇子の葬儀のおり、朝廷に刃向った大逆による処刑です。そのため、正式の葬儀は無く、結果、亡き人を悼む挽歌も大逆の罪人にはあってはいけないことになります。
 では、万葉人たちにとって大津皇子は大逆の罪人として捨て去る人物であったのかと云うとそうでもなかったようです。そのためか、万葉集と同時代性を持つ懐風藻には大津皇子の作とされる漢詩が載ります。懐風藻に載る大津皇子の作とされる漢詩は後年に百済系と思われる人物により創られた、皇子の感情を推測しての成り代わりの代作です。

金烏臨西舎  金烏 西舎に臨み
鼓聲催短命  鼓聲 短命を催す
泉路無賓主  泉路 賓主無く
此夕離家向  此の夕、家を離れて向ふ

注意:日本では皇族の処刑に際し、市中引き回しをし、銅鑼や銅鼓を使った演出はしません。また、四句目「此夕離家向」は「此夕向離家」と記述するのが一般的とされます。このため、近々に渡来した百済系の人物による漢詩ではないかと推測されています。

 どうも、聖武天皇時代の懐風藻の編者は大津皇子の歌が必要と考えたようです。そこで後年になって、大津皇子に辞世の漢詩を詠わせています。すると、万葉集の編者はどのように考えたのでしょうか。建前では大津皇子に挽歌はありませんから、大津皇子自身に辞世の和歌を詠わすか、誰かが大津皇子への哀傷歌を奉げると云う形を取らざるを得ません。ただ、大来皇女が歌を奉げたかと云うと疑問があります。それも大津皇子は渡来系の僧侶や小者たちと反逆を企てたとしますから、可能性として朝廷に刃向った大逆による処刑とは淫行であった可能性があります。それが懐風藻で「性頗放蕩、不拘法度(性頗ぶる放蕩にして、法度に拘らず)」であり、「近此奸豎、卒以戮辱自終(此の奸豎に近づきて、卒に戮辱を以つて自から終る)」と記す皇子の性格と評論です。従いまして、性頗ぶる放蕩と評判される人物に対して、その死後、直後に大来皇女がかような歌を奉げますと、当然、大来皇女との淫行と云う評判が立ちます。
 弊ブログでは、歌は二上山に因んだ歌謡から取られたものであり、そこから大津皇子を追悼する創作和歌と考えています。しかしながら、天平の世にあっても建前として大津皇子は朝廷に刃向った大逆の罪人です。世の人は追悼歌を詠うわけにはいきません。そこで、大津皇子が処刑された時、唯一の生存する肉親であった大来皇女の名を借りたと考えます。大津皇子の正妻である山辺皇女は大津皇子によって離縁されなかったために、大逆への連座となり大津皇子と共に処刑されています。離縁されていますと、可能性として集歌165と集歌166との組歌二首は山辺皇女が大津皇子に奉げたとなったのではないでしょうか。

 今回もまた、穿ちました。
コメント
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