竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 百七八 評論と論拠 柿本人麻呂の歌

2016年07月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七八 評論と論拠 柿本人麻呂の歌

 約二年前、「万葉集と日中交流 白龜元年調布の礼」と云う題で、柿本人麻呂時代の漢籍将来問題を取り上げました。今回、再び、この問題について遊んでみたいと思います。
 前回では次のような文を紹介し、なぜ、テーマとして取り上げたかを紹介しました。

 昭和中期のものに人麻呂の作品には山上憶良や大伴旅人では確認できる『文選』や『遊仙窟』の姿が見えず、また、『芸文類聚』も見えないとします。そこから人麻呂の人物像を推定して、彼は漢文に弱く、早く中級貴族(朝臣の身分)の子弟として舎人の身分で宮中に出仕をしたが、漢文章の能力に欠け、中年以降は役人としては能力不足により不遇であったと説明します。そして、『懐風藻』には彼の名が無いことから、その漢文章の能力に欠けていたことの証とします。

 当然、このような論評をする人の基礎的、了解事項として、「柿本人麻呂の時代、つまり、近江大津宮から飛鳥浄御原宮の時代までに主要な漢籍、例えば、四書五経、漢書、後漢書、晋書、文選、芸文類聚、説文解字などは大和に将来しており、朝廷の大学などで閲覧・学習が出来たはずである」と云うものがあります。また、柿本人麻呂の文章に漢籍の影響が薄いから、教養が不足しているとの指摘では、彼と同時代人の作品にはそのような漢籍の影響が確認できるという証明があるはずです。そうでなければ、学問ではなく、私と同じような素人が為す焼酎片手での与太話以外のなにものでもありません。なお、そのような議論において、懐風藻は論拠にはなりません。懐風藻を序文から葛井連廣成の作品までを鑑賞しますと、本来の懐風藻と現在に伝わる懐風藻とは違うであろうと推認され、元々の作品に柿本人麻呂や山上憶良の作品があったかもしれないのです。
 一方、日本書紀や古事記、また、万葉歌人である大伴旅人や山上憶良たちの作品にはそのような漢籍の影響や引用は証明された事実です。ただし、柿本人麻呂時代と大伴旅人・山上憶良たちの時代では大陸との文化交流面で大きな違いがあります。近江大津宮から飛鳥浄御原宮の時代は朝鮮半島問題処理のために大陸や朝鮮半島諸国との使節団の交換は有りましたが、政治体制や文化・科学技術導入を目的とした使節団派遣と云う事業は行われていません。文化や科学技術の導入を主目的とした使節団派遣の復活は山上憶良も一員であった第七次遣唐使以降です。特に第八次遣唐使は玄宗皇帝から特別に市中からの漢籍購入の許可得て、中国側も驚き、正史に記録するほどに長安市中の書籍をことごとく購入したとします。それに加えて、この長安市中の書籍をことごとく購入した第八次遣唐使は四隻構成の船団、全部が無傷で大宰府に帰着しています。
 ここまでが、「万葉集と日中交流 白龜元年調布の礼」で述べました内容からのおさらいです。

 つぎに以下に紹介する人麻呂が詠う「泣血哀慟作歌」の内、第一群となる集歌207の長歌を見てください。ある有望な若手研究者はこの歌の中での「遣悶流」と云う表現に注目します。この表記は同じ人麻呂が詠う集歌196の歌に「遣悶流 情毛不在」という表記で使われ、この「遣悶流」と云う表現は人麻呂独特の表現とされています。この表現に対して、標準では「なぐさもる=慰もる」と訓じます。そうした時、漢字文字から「遣」を「なぐさ」とは訓じられませんから、「遣悶」を「なぐさも」と訓じるということになります。そうした時、この訓じの由来は何かと云うことになります。

柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短哥
標訓 柿本朝臣人麿の妻死りし後に泣(い)血(さ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首并せて短歌
集歌207 天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不己行者 人目乎多見 真根久往者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣渕之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使乃言者 梓弓 聲尓聞而 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴
訓読 天飛ぶや 軽し道は 吾妹児し 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど 止(や)まず行かば 人目を多(おほ)み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船し 思ひ憑(たの)みに 玉かぎる 磐(いは)垣(かき)淵(ふち)し 隠(こ)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ去(い)ぬしがごと 照る月の 雲隠(くもかく)るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉(もみちは)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまずさ)の 使(つかひ)の言へば 梓(あずさ)弓(ゆみ) 音に聞きに 言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きにあり得(え)ねば 吾が恋ふる 千重(ちへ)し一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止(や)まず出で見し 軽し市に 吾が立ち聞けば 玉(たま)襷(たすき) 畝傍の山に 喧(な)く鳥し 声もそ聞けず 玉桙し 道行く人も ひとりだに 似てし去(ゆ)かねば 術(すべ)を無み 妹し名呼びに 袖ぞ振りつる

 この「遣悶流」の表記は万葉仮名での表現ではないであろうとしての訓じ「慰もる」は漢語熟語「遣悶」(日本語の遣悶する)からの意を汲んだ戯訓であろうと推定します。一方、中国の漢字漢文の原義からしますと「遣悶」と云うものを日本語に訳せば「胸中のもだえを遣る、イラつく気持ちを現す」と云うことになります。中国の漢字漢文の原義からは日本語訓じの「慰もる」は少し遠い戯訓となります。
 ところで、日本語には「遣悶する(=慰む、憂さをはらす)」という言葉があり、この日本語を中国語に翻訳する時には「消愁遣悶」と云う言葉を新たに造語して対応しているようです。日本では慣習的に「遣悶」を中国から輸入された漢語熟語と捉えていますが、中国では逆に日本語の熟語として捉えています。これはある種の「科学」、「哲学」、「郵便」などの言葉と似たところがあります。
 また、国文学を研究する人が漢文に深く親しんでいるというのは、ある種の色眼鏡です。漢文章に慣れていない国文学者が万葉集を鑑賞する時、単純に漢字文字列の相同をもって、それら相互の影響を提案することがあります。その典型の例としてこの「遣悶」と云う文字列があります。ある研究者は正倉院文書として残る『杜家立成雑書要略(杜家雑書)』に「今欲向爐擧酒、冀以拂寒、入店持杯、望其遣悶」と云う文章があり、この文字列から杜家雑書と柿本人麻呂の関係を指摘します。さらに、二十巻本万葉集に先立つとされ、巻一と巻二の中核を為す原万葉集成立以降に成った唐代の詩歌、杜甫の「遣悶奉呈嚴公二十韻」、「遣悶戲呈路十九曹長」などや李群玉の「旅泊」などから「遣悶」と云う文字列との歴史や関係を探ります。当然、漢文章に慣れていますと、杜家雑書の「遣悶」は「酒屋に入って、酒で憂さを晴らす」と云うものですから、「遣悶」は「胸中のもだえを遣る」との原義のままです。日本語での「慰める」と云うものからしますと相当に遠いものとなります。また、杜甫の「遣悶奉呈嚴公二十韻」での「遣悶」は「鬱々とした気持ち」のような意味合いですから「慰める」と云う意味合いはありません。このように人麻呂歌での「遣悶流」と杜家雑書や杜甫たち詩人の使う「遣悶」とは、その言葉を使う場面や意味合いが違うということをすぐに認識すると思います。先に説明しましたが、中国語の「遣悶」は熟語でも慣用句でもありません。構文の上での用字選択の結果だけです。そのため、日本語の「遣悶」と云う漢語熟語に対応するために中国語では「消愁遣悶」と云う言葉が必要になるのです。つまり、漢文章に親しんでいる人が、積極的に人麻呂歌での「遣悶流」と云う文字列解釈の説明に杜家雑書や杜甫の漢詩を引用することは有り得ないことになります。それに古語「なぐさ」は「和ぐ+さ」とも推定される言葉で平安時代前期頃までは古今和歌集仮名序に「歌をいひてぞ、なぐさめける」、「歌にのみぞ、心をなぐさめける」などと記すように「和む、心安らぐ」と云う意味合いの強い言葉です。鎌倉時代以降の解釈とは言葉の感覚が違います。本来ですと、「遣悶流」と云う文字列に対する伝統の訓じ「なぐさもる」と漢字文字の原義との相違を提示し、伝統訓じ「なぐさもる」となっていることに焦点を当て、説を述べるようなものです。
 追記として正倉院文書である杜家雑書の収納時期と万葉集成立の時期とを比べて、杜家雑書の収納時期の方が早いから、柿本人麻呂はこの「入店持杯、望其遣悶」文章から「遣悶」と云う文字列配置を知ったであろうとの論を進める人もいるようです。もし、そのような人が研究者でしたら、少し、論理組み立てに難があります。文字列が使われる泣血哀慟作歌の集歌207の歌の成立は人麻呂の二度目の紀伊行幸に随伴した大宝元年(七〇一)十月以前となる文武三年(六九九)晩秋であろうと推定されています。すると、杜家雑書が人麻呂に影響を与えたと推定する場合は、杜家雑書は文武年間以前に大和に将来していたと証明する必要がありますし、どのように正倉院にその文書を納めた光明子に引き継がれたかと云う問題を解明する必要があります。それに、堂々巡りになりますが、人麻呂の「遣悶流」と杜家雑書の「望其遣悶」は意味合いが違います。この違いの由来の解決もまた重大な要点です。

 ここで、人麻呂の「遣悶流」と云う文字列を「なぐさもる」について、万葉集の中に類型を探しますと、集歌207の歌の「遣悶流 情毛有八等」に対して同じ人麻呂歌の集歌196の歌では「遣悶流 情毛不在」ですし、丹比真人笠麿が詠う集歌509の歌では「名草漏 情毛有哉跡」とあります。ここから「遣悶流 情毛有八等」は「なぐさもる こころもありやと」との訓じが推定されます。山上憶良は集歌889の歌で「奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志」、集歌898の歌では「奈具佐牟留 心波奈之尓」と詠いますから、これらは類型歌であろうと強く推定されます。すると、「遣悶流」は「なぐさもる」または「なぐさむる」と訓じるのが相当であろうと推定しても良いと考えられます。すると、「遣悶流」を「なぐさもる」と訓じるものは説明しましたように中国からの漢語熟語に由来を持ちませんから、人麻呂独特の造語と云うことになります。
 ただし、万葉集中で「遣悶」と云う文字列は明日香皇女木瓲殯宮之時柿本朝臣人麻呂作謌の標題を持つ集歌196の歌の「遣悶流 情毛不在」とこの柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作謌の標題を持つ集歌207の歌の「遣悶流 情毛有八等」との二首だけに使われる特徴的な表記です。他方、この集歌207の歌では「真根久往者」、「名延之妹者」、「世武為便不知尓」は特徴的に音を優先した万葉仮名として文字群を扱っていますから、同様に「遣悶流 情毛有八等」もまた万葉仮名的な扱いでの表記かもしれません。従いまして、可能性としてこの「遣悶流」と云う文字列に対する類型歌が存在しなくて、文字直接からの「やりもゆる」のような訓じを排除できないことになります。そうしますと、この「真根久」と云う文字群に漢語熟語の由来を求めるのはナンセンスですから、等しく「遣悶流」にそれを求めるのもナンセンスなのかもしれません。
 可能性において、文字直接からのこの「やりもゆる」を「やり+もゆる」としますと、「心を慰める+ゆらゆら立ち上がる」のような意味合いを持つ複合語かもしれないのです。そうしますと、単純な「なぐさめる」と云う言葉よりも、「心を安らかにする気持ちがゆらゆらと湧きあがる」と云うものとなり、さらに深い感情表現と云うことになります。確かに古語に「やりもゆる」と云う言葉は有りませんが、ただ、この言葉は挽歌と云う人の死と云う場面を詠うものとしてはふさわしいのではないでしょうか。

<「やる」の用法>
集歌346 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
訓読 夜光る玉といふとも酒飲みて情(ここら)を遣(や)るにあに若(し)かめやも
私訳 夜に光ると云う貴重な玉といっても、酒を飲んで鬱々とした気持ちを慰めるのにどうして及びましょう。

<「もゆ」の用法>
集歌2177 春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
訓読 春は萌(も)よ夏は緑に紅(くれなゐ)し綵色(まだら)にそ見ゆ秋し山かも
私訳 春は木々が萌え立ち、夏は木々が緑に包まれる。その木々が紅に染まりまらだ模様に見える、その秋の山なのでしょう。


 今回は季報「萬葉集」からの言い掛かりです。それしか、ありません。ものは完全なる与太話ですし、馬鹿話です。ですから、いつものように読み捨てでお願いします。




<参考資料;唐漢詩>
遣悶奉呈嚴公二十韻より その一 杜甫(初唐の詩人)
白水魚竿客 清秋鶴發翁
胡為來幕下 只合在舟中
黄巻真如律 青袍也自公
老妻憂坐痺 幼女問頭風

遣悶戲呈路十九曹長 杜甫
江浦雷聲喧昨夜
春城雨色動微寒
黄鸝並坐交愁濕
白鷺群飛大劇乾
晩節漸於詩律細
誰家數去酒杯寛
惟吾最愛清狂客
百遍相看意未闌

旅泊 李群玉(晩唐の詩人)
搖落江天里 飄零倚客舟
短篇才遣悶 小釀不供愁
沙雨潮痕細 林風月影稠
書空閑度日 深擁破貂裘


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする