スーパーカーブームの頃、
主役はいつもランボルギーニ、フェラーリのイタリア勢を初めとする
ヨーロッパ製のクルマたちでした。
そんな中、日本車で唯一スーパーカーと呼べる存在だったのが
トヨタ2000GTでした。
トヨタ2000GTは、ヤマハ発動機の技術供与により開発されたクルマで、
昭和42年(1967年)5月に238万円という高価格で発売されました。
(大卒の初任給が2万円台の時代なので、
現在の価格に換算すると10倍くらいでしょうか)
それほどの高額にも関わらず、コストが掛かりすぎたため、
赤字計上が続き、わずか3年間、337台の生産にとどまりました。
が、その希少さがゆえに、スーパーカーブームでは、
幻のスーパーカー的な扱いを受ける存在に。
当時の日本車とかけ離れた流麗なスタイル。
ジャガーのEタイプの影響を受けたと言われています。
極端に長いノーズは、運転するのに慣れが必要でしょう。
ヘッドライトは高さを確保するためにリトラクタブルタイプを採用。
(グリルに組み込まれているのは、フォグランプ)
ヤマハ製のDOHCヘッドを持つ2,000ccの直6エンジンは、
三国工業製のソレックス型ツイン・キャブレターを3連装で武装し、
150PS(グロス値)、最高速度220km/hを発揮。
イタリア製の12気筒のスーパーカーと比べると
さすがに大人しい数値ですが、
当時の2リットルエンジンとしては、
世界トップクラスだったそうです。
トヨタ2000GTと言えば、
日本を舞台にした映画『007は二度死ぬ』(1967年英)の
ボンドカーに採用され、映画用にロードスターが作成されました。
スーパーカーブーム当時、トヨタ2000GTが大好きでした。
国道を通るときはいつも、2000GTが走ってこないかと期待して、
必死でクルマを眺めていました。
(当然、見れるコトはありませんでしたが)
憧れの2000GTを初めて見たのは、バブルの時代、
ショールームに展示してあった赤い2000GTでした。
想像してたよりも、ずっと小さいクルマで
特に横幅の狭さに驚いた覚えがります。
けれども、その流麗なフォルムは、
写真で見るよりもずっと魅力的でした。
主役はいつもランボルギーニ、フェラーリのイタリア勢を初めとする
ヨーロッパ製のクルマたちでした。
そんな中、日本車で唯一スーパーカーと呼べる存在だったのが
トヨタ2000GTでした。
トヨタ2000GTは、ヤマハ発動機の技術供与により開発されたクルマで、
昭和42年(1967年)5月に238万円という高価格で発売されました。
(大卒の初任給が2万円台の時代なので、
現在の価格に換算すると10倍くらいでしょうか)
それほどの高額にも関わらず、コストが掛かりすぎたため、
赤字計上が続き、わずか3年間、337台の生産にとどまりました。
が、その希少さがゆえに、スーパーカーブームでは、
幻のスーパーカー的な扱いを受ける存在に。
当時の日本車とかけ離れた流麗なスタイル。
ジャガーのEタイプの影響を受けたと言われています。
極端に長いノーズは、運転するのに慣れが必要でしょう。
ヘッドライトは高さを確保するためにリトラクタブルタイプを採用。
(グリルに組み込まれているのは、フォグランプ)
ヤマハ製のDOHCヘッドを持つ2,000ccの直6エンジンは、
三国工業製のソレックス型ツイン・キャブレターを3連装で武装し、
150PS(グロス値)、最高速度220km/hを発揮。
イタリア製の12気筒のスーパーカーと比べると
さすがに大人しい数値ですが、
当時の2リットルエンジンとしては、
世界トップクラスだったそうです。
トヨタ2000GTと言えば、
日本を舞台にした映画『007は二度死ぬ』(1967年英)の
ボンドカーに採用され、映画用にロードスターが作成されました。
スーパーカーブーム当時、トヨタ2000GTが大好きでした。
国道を通るときはいつも、2000GTが走ってこないかと期待して、
必死でクルマを眺めていました。
(当然、見れるコトはありませんでしたが)
憧れの2000GTを初めて見たのは、バブルの時代、
ショールームに展示してあった赤い2000GTでした。
想像してたよりも、ずっと小さいクルマで
特に横幅の狭さに驚いた覚えがります。
けれども、その流麗なフォルムは、
写真で見るよりもずっと魅力的でした。