『知識は力なり』(Knoeledge is power.) 16世紀のイギリスの哲学者フランシス・ペーコンの著書の中に出てくる言葉です。
去年の福島第一原発の事故に際して、東大大学院工学系統出身の学者たちが、全くあきれるほどに無策であったことは周知の事実です。政府の対応も事態の深刻さを理解できずにどんな危機管理においても常に優柔不断という日本の持ち味を遺憾なく発揮してくれました。
日本の国民の本当の危機を肌に感じない鈍感さに由来する「寛容さ」にはなんともいえない孤立無援の無力感を禁じ得ません。
小学生も中学生も今は知識の吸収の時です。高校生、大学生と学問は次第に専門化し、分化しながらも「学ぶ」ことには変わりません。
確かに、知識は力です。日本語では「知は力なり」と訳されることがありますが、この場合の「知」は、単なる知識ではなく「知恵」の意味も含まれると解説されることがあるようです。私は「知恵をはたらかせる」ことを算数や適性の指導では子どもたちによく言いますね。
子どもたちは今は様々な知識を知ること、知っていることに面白さを感じている状態だと思います。私たち現代人はできるだけいろいろ余計なことは知らないようにしようとしていると思います。そのほうが「考えないですむ」から楽だからです。現代はストレス社会です。余計なことを考え、頭を悩ますことがストレスなわけです。
それにしても原子力ないし原発ということについて正面から考えてこなかった、常に回避してきたのはやはり大きな間違いでした。私たちの生存、私たちの子孫の生存そのものをあっという間に奈落の底に落としてしまうほどの問題だったのですから。
子どもたちが知識を嬉々として学び開けかすのを見ていると、単なる物識りは役に立つのかと思いたくなります。教養を広げるだけの知識なら必要ないのではないか。
原子力政策に携わる政治家、官僚、財界人、学者みな無策無能でした。昨今弁護士出身の政治家が花盛りですが、この人たちの言うことが一向に信頼できないのです。いったいあなたたちの今まで学んできた知識とは何だったのでしょうか。私には国会でなんやかやとわめいている議員たちがなんとも烏合の衆に見えてしかたないのです。
管おろしはあったが、野田おろしは「ない」。そこに闇の力の意思を見ますし、力学的なものが真実を語るようにも思えます。
朝日新聞は去年の5月の社説では原発を「認める」論調でした。昨今の朝日が原発に批判的論調なのはいいのですが、過去において原発を支えてきた巨大メディアとしての責任は何も語られません。私たちはすでにテレビの報道の限界は知っていますし、読売新聞の機関誌化を見ていると、こんな新聞をよくも多くの人が信頼して読むものだと不思議でしかたないのです。記者クラブ制度で政府の公式発表だけを記事にするような新聞をどうして信頼できようか。
巷では福島第一原発の2号機の再臨界の可能性が囁かれています。しかし、政府も東電も最近は福島がどうなっているのかまるで国民に知らせません。新聞も自ら取材するはずもなく何も報じようとしないのです。そもそも文科省がプルトニウムなどの調査を全くしないのか、しても知らせないで隠蔽しているのか、全く不埒な国家機関です。
私たちは、東大大学院工学系統出身の人たちの愚かさを十分知ったはずです。この人たちは知を自分たちの都合のいいように使ってきました。そして国家存亡の大事故に為す術もなかった無策無能の人たちだったのです。知を権威化してふんどりかえっているだけの人たちでした。
ジョージ・オゥエルは小説の中で「無知は力なり」ということをある意味主張しています。なんとも考えさせられる問題です。
知というのは、私たちの生活の中で様々なかかわりをみせてくるのですが、私たちは知を自分たちのよこしまな意図を隠すために利用しているのではないか。知を純粋に生存とかかわりで見極めてきたことはあったのか。
さてそれにしても子どもたちは「考える」ということの訓練の真っ直中にある。
去年の福島第一原発の事故に際して、東大大学院工学系統出身の学者たちが、全くあきれるほどに無策であったことは周知の事実です。政府の対応も事態の深刻さを理解できずにどんな危機管理においても常に優柔不断という日本の持ち味を遺憾なく発揮してくれました。
日本の国民の本当の危機を肌に感じない鈍感さに由来する「寛容さ」にはなんともいえない孤立無援の無力感を禁じ得ません。
小学生も中学生も今は知識の吸収の時です。高校生、大学生と学問は次第に専門化し、分化しながらも「学ぶ」ことには変わりません。
確かに、知識は力です。日本語では「知は力なり」と訳されることがありますが、この場合の「知」は、単なる知識ではなく「知恵」の意味も含まれると解説されることがあるようです。私は「知恵をはたらかせる」ことを算数や適性の指導では子どもたちによく言いますね。
子どもたちは今は様々な知識を知ること、知っていることに面白さを感じている状態だと思います。私たち現代人はできるだけいろいろ余計なことは知らないようにしようとしていると思います。そのほうが「考えないですむ」から楽だからです。現代はストレス社会です。余計なことを考え、頭を悩ますことがストレスなわけです。
それにしても原子力ないし原発ということについて正面から考えてこなかった、常に回避してきたのはやはり大きな間違いでした。私たちの生存、私たちの子孫の生存そのものをあっという間に奈落の底に落としてしまうほどの問題だったのですから。
子どもたちが知識を嬉々として学び開けかすのを見ていると、単なる物識りは役に立つのかと思いたくなります。教養を広げるだけの知識なら必要ないのではないか。
原子力政策に携わる政治家、官僚、財界人、学者みな無策無能でした。昨今弁護士出身の政治家が花盛りですが、この人たちの言うことが一向に信頼できないのです。いったいあなたたちの今まで学んできた知識とは何だったのでしょうか。私には国会でなんやかやとわめいている議員たちがなんとも烏合の衆に見えてしかたないのです。
管おろしはあったが、野田おろしは「ない」。そこに闇の力の意思を見ますし、力学的なものが真実を語るようにも思えます。
朝日新聞は去年の5月の社説では原発を「認める」論調でした。昨今の朝日が原発に批判的論調なのはいいのですが、過去において原発を支えてきた巨大メディアとしての責任は何も語られません。私たちはすでにテレビの報道の限界は知っていますし、読売新聞の機関誌化を見ていると、こんな新聞をよくも多くの人が信頼して読むものだと不思議でしかたないのです。記者クラブ制度で政府の公式発表だけを記事にするような新聞をどうして信頼できようか。
巷では福島第一原発の2号機の再臨界の可能性が囁かれています。しかし、政府も東電も最近は福島がどうなっているのかまるで国民に知らせません。新聞も自ら取材するはずもなく何も報じようとしないのです。そもそも文科省がプルトニウムなどの調査を全くしないのか、しても知らせないで隠蔽しているのか、全く不埒な国家機関です。
私たちは、東大大学院工学系統出身の人たちの愚かさを十分知ったはずです。この人たちは知を自分たちの都合のいいように使ってきました。そして国家存亡の大事故に為す術もなかった無策無能の人たちだったのです。知を権威化してふんどりかえっているだけの人たちでした。
ジョージ・オゥエルは小説の中で「無知は力なり」ということをある意味主張しています。なんとも考えさせられる問題です。
知というのは、私たちの生活の中で様々なかかわりをみせてくるのですが、私たちは知を自分たちのよこしまな意図を隠すために利用しているのではないか。知を純粋に生存とかかわりで見極めてきたことはあったのか。
さてそれにしても子どもたちは「考える」ということの訓練の真っ直中にある。




お早うございます。本日は渋谷教室の指導日です。今日は朝は清々しい晴れ模様です。外気はなんとも爽やかで気持ちのいい風が開放したベランダから流れ込んできます。ただ午後からは曇りらしいですね。




















