武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

月之抄 八 柳生十兵衛

2016年10月25日 | Weblog
 『月之抄』  柳生十兵衛三厳

  神妙剣之事
 古語曰く、心地含諸種 普雨悉皆萌 頓悟花情己 菩提果自成
 老父云。中墨と云也。太刀のおさまる所なり。へそのまはり五寸四方なり。手字手利剣、水月、神妙剣、此三つは人間の惣太体の積り、兵法之父母たり。此三つより心持種々に出る也。大形此三つに極るなり。水月も是神よりの儀也。思ひつく心を月と定、神妙剣を鏡とする。

【抄訳】
  神妙剣の事
 古語に言う。心地は諸種を含む、あまねく雨は悉く皆きざす、花の性を頓悟すれば、菩提の菓自ずから成る。
 父宗矩は言う。両拳の間を中墨と言うのである。太刀の収まるところである。臍の周り五寸(約15cm)四方の事である。十字手裏剣、水月、神妙剣、この三つは人間のたちまち太体の距離、兵法の父母である。この三つから心持ちが色々に出てくるのである。大方この三つに極まるのである。水月もこの神髄から発しているのである。思いつく心を月と定めて、神妙剣を鏡とする。

 心を場に映せば勝ちやすいものである。人に大小があるように、間合い「水の場」を取る時、その影を考えること。その場を取ることを斬らないという事はない。それを見損ずるものである。深く取っては後へ退く事ができない。はずしは浅く取る所に要点がある。場を取る所を斬ると思う心を、予め心に持つことが大事なのである。取るところを斬らない者は、そのまま勝つこと。攻撃攻撃、先々と仕掛けていくこと。味を持つことが神妙剣なのである。


  歩之事
 父云、水月ノ前ニテハ、いかにもしづかに心懸、アユミタルヨシ。水月ノ内ヘナリテハ、一左足早く心持よし。亡父ノ録ニハあゆミの事、シヤウガアリト書セルアリ。亦云、アユミハ、はつミてかろき心持ナリ。一アシノ心持専ナリ。千里ノカウモ、イッホヨリヲコルト云々。亦云、他流ニカラス左足、ねり足などと云ハ、後ノ足をよせ、サキノ足ヲ早く出すためなり。惣別あゆミハこまかにして、とどまらぬ心持専也。ねり足と云ハ、搆をして、ぢんぢりねりかかるヲ云也。

【抄訳】
  歩の事
 父宗矩は言う。間合いに入らないところ「水月の前」では、いかにも静かに心掛け、歩くのがよい。水月の中に入ったら、一つ左足早く心持ちがよい。祖父石舟斎の目録には、歩く事には、唱歌の心掛けがあると書いている。また言う。歩くのは、弾んで軽い心持ちである。一足の心持ちに専心すること。千里を行くのも、一歩からの始まると言う。また言う。他流に烏左足、練り足などというのは、後ろの足を寄せて、前の足を早く出す為に使う歩みなのである。大体、歩くのは細かく、留まらない心持ちに専念すること。練り足というのは、構えをして、じりじりと練り懸かるのを言うのである。


  間之拍子歩之事
 老父ノ録ニ此儀無之。亡父ノ目録ニ在之、理りハ何ともなし。弥三ツイウ、歩ハ不断アル心持也。何心モなくロクニシヅカなる事よしと宗厳公被仰シト語モアリ。云、何ノ心モなし。不断あるくあゆミハ、拍子ニあらすして拍子也。拍子ノ間ダ也。間ニは拍子なき所也。なき所拍子也。拍子なきとて拍子がちがへは、けつまずくなり。なき所間の拍子、不断ノ歩也。こゝぞといふ時ハ、不断の様にあゆまれぬ也。心がはたらかぬゆへと知べし。

【抄訳】
 間の拍子歩の事
 父宗矩の目録にはこの意味は書いていない。祖父石舟斎の目録には書いてある。しかし理は何も書いていない。弥三の言うには、歩くのは普段の気持ちで歩くこと。何の意識もせず、水平に静かであることがよい、と祖父石舟斎が言っていたと語る人もいる。言う。何の意識もしない。普段の歩く歩みが拍子ではないが拍子なのである。拍子の間である。間には拍子が無いところである。無い処が拍子なのである。拍子がないからといって、拍子が違えばけつまずくのである。無いところの間の拍子が普段の歩みなのである。ここぞという時は、普段のように歩けないのである。心が働かないからだと知ること。
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