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公家の庭

2017年06月18日 | Weblog
                                    復元された閑院宮家の庭

 京都御苑は、元々御所を中心にして公家屋敷が広がっていたところである。現在、御苑の西南角付近には、九条家跡の拾翠亭(しゅうすいてい)と、復元された閑院宮家の庭がある。

 九条家の庭

 九条家は藤原北家の嫡流で五摂家のひとつ。平安末期、関白藤原忠通の三男で東九条の九条殿に住んだ藤原兼実に始まるとされる。
 明治維新に、天皇が東京に移るまでは、堺町御門の西北部一帯に約7千坪という広大な規模の屋敷を構えていた。
 慶長年間には豊臣秀吉が内裏周辺に公家町を形成し、九条邸の他にも多くの公家邸が集まった。しかし、度々大火が発生したことにより、幕府による延焼防止策が行われ、周辺の町家だけではなく公家邸も配置換えして火除地が設けられた。さらに、町家の跡地には防火用水がいくつか掘られ、九条邸の南、 堺町御門の西の空き地にも溜め池が掘られた。この池が18世紀の後半から19世紀の後半にかけて九条家の敷地に取りこまれ、庭が整備されていったと推測される。この池が、九条池であり、池のほとりに拾翠亭がある。
 また、平清盛が母、祇園女御のために勧進したと伝えられる厳島神社は、九条池の島の中に遷座され九条家の鎮守社となった。ここ厳島神社の鳥居は、唐破風鳥居の珍しい鳥居である。

 閑院宮家の庭

 閑院宮家は江戸期の四親王家のひとつで、東山天皇の皇子直仁親王を祖とする。宝永7年に新井白石が将軍徳川家宣に建白して創設したのが始まりとされる。
 後の五代愛仁親王に後嗣がなく、一時は絶えたが,明治5年に伏見宮家の載仁親王により再興された。昭和22年、春仁親王の代に皇族を離れ、閑院家となった。現在の庭は、明治16年に宮内省支庁として建てられた庭の一部にほぼ相違なく、かつては更に東側に広がっていたようである。当時の姿は、明治40年の「皇宮新古合図」から伺い知ることができるという。
 大正2年の大正天皇御大典の大改造工事に伴う、間ノ町口周辺の苑路整備により、宮家創立以来のL字型の敷地割が変わり、園池の一部が南北に分断され、その時に東側の池が失われたままで、現在に至る。
 復元された公家の庭は、池に水を導く遣水(やりみず)の起点には石を切り出す際に打ち込む鉄の矢の楔(くさび)を入れた矢跡(やあと)が残る白川石が立てられ、流れは穏やかに屈曲して小さな滝となって池に注ぐ。庭石には鞍馬石や緑色片岩が配され、海辺の景色を表す小石を敷き詰めた州浜や、いろいろな形の燈籠などがあり、小規模ながら気品ある趣きの公家の庭である。落ち着いた佇まいは風格を感じさせる。
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