たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

自分を笑う

2015-02-24 10:40:02 | エッセイ

大阪の街なかで、指鉄砲で見知らぬ人に「バーン!」とやるとどう反応するか…。テレビでそんな事をやっていた。大抵の人が「うーっ!」と倒れるふりをしてくれていた。しかし、同じ事を東京でやると事態は一変する。倒れるどころか、直立のまま「あなた、なにバカやってるの?」と、なんとも冷静な反応が返ってきていた。

また、大阪で「すみません、これで電話かけてもらえますか」とバナナを出してお願いすると、「はいはい…もしもし…って、これバナナですやんッ!」という反応ばかりだった。明らかにバナナと分かっていても、とにかく受け取り、そして"わざわざ"ボケてから返すのだ。大阪人の笑いである「ボケ→ノリボケ→ノリツッコミ」である。

東京でも同じ試みをしていたが、案の定、「あの、これバナナですよ、バナナで電話
なんて無理でしょ!」と、とても生真面目な反応となっていた。もちろん東京にも倒れたり電話してくれたりのノリの良い方はきっとおられるのだろうが、それはさておき大阪と東京のこの大きな違いとはいったい何なのだろう?。

つまり、大阪人は「自分を笑う」ことに対する寛容度が、東京と比べて相当に高いの
ではないのだろうか。指鉄砲に「うーん」と倒れるのも、バナナに「もしもし」と返すのも、つまりは自分を自らの笑いのネタとして受け入れてあっさり消化してしまうからであり、そこにはことさらに自虐めいた感覚を込めているわけではないのである。大阪人にとって「自分を笑う」という事は、別にかっこ悪いことでもなく、逆にまたかっこいいことでもなく、ごくごく普通の行動パターンなのだ。

そんな事を考えていたわけは、昨年『鯨の祖先』という歌集を上梓して、その中のいくつかの歌を「自虐的」だと数人の方に指摘されてしまったことによる。私としてはどこまでも「甘噛み」程度の感覚だったのだが…。

そんな思いのなか、兵庫県歌人クラブの読書会に拙歌集を取り上げていただき、レポーターの小谷博泰さんの『「笑われてなんぼのもんや」と言われる大阪では、自分ネタは自虐にあらず。親愛なるゆえに家族も機械も言葉もユーモアの対象(あるいはモチーフ)になっているのである』との評をお聞きし、下記の歌他をあげてくだり、我がもやもやの原因を見つけて少し嬉しくなってしまった。

 酔ったオッサン傾いてきたとかメールされているのだろう我はいま
 出た腹を無理に凹ませ歩きゆきプールに入りてホッと息抜く
 ごみ袋下げたる妻がやってきて缶、菓子袋、我を押し込む

 これは「自虐」なのだろうか…。自虐というものが短歌の表現としてはあまり誉められる部類のものじゃないことは理解しているつもりだし、これからはそうした傾向は改めたいとは思うのだが、東西の感覚差による歌の受け取り方の違いは、情報網が発達した現代においてもかくも大きいことを知った二月半ばの温かい日の夜でありました。

たけじゅんホームページ
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿