武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄インタビュー(6)

2013年07月19日 05時51分03秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨 入会申込み 生家の保存・活用を求める署名 生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生の作品は大きく分けて童画、版画、刊本作品に分類されますが、特に昭和10年の第1号から現在の130号(頒本済み)まで続いている刊本作品の数々は「芸術の極限」と言われているほど。そこで刊本を最初に造られたいきさつなどを


イルフトイズ第4回展の招待券(1932年)

書窓・宇宙説 昭和17年(アオイ書房)
武井 その発端は、今考えている刊本作品の考え方とは違った形なんですね。童画もアルバイトから入って本筋になってきたわけですが、刊本作品の場合も、そんな美術的な本をいつまでも造るなんてことは考えてもいなかったんです。
 僕の仕事の中で大変懐かしみをもって記憶している方が多いんですけれど、ある時、イルフトイズといって僕のデザインした玩具の一つの運動をやったんです。イルフという言葉はフルイのさかさまの造語で、つまり新しいという意味であり、いつも新しいものへの追求を旗印とした児童文化の運動です。これは昭和5、6年ころから10年くらいやりましたかね。僕がデザインをおろして専門の工人じゃなくて、素人でいろいろな技能を持った人を集めてですね。例をあげてみると木製の玩具、はりこの玩具、それから縫いぐるみだとか、あるいは土焼きのものだとか、あらゆる材料を集めてね、僕のデザインでみな作らせたんです。その作品の展示予約を日本橋の三越でやったんですが、会館10時前にライオンのある入り口に並んでて、開くと一緒に走りこんで買うというほど愛好者が出たんです。
 ところが考えてみると、こんなものは大人がナツメロみたいな意味で懐かしがって買うものであって、何も子供を助けることにならないんです。子供の玩具を作るんだったら製造工場で量産しなけりゃならないんだけど、僕らデザインするだけの作家的な立場で、その方は商売の方になって僕らの手には及ばない。
 それと、もう一つは自分が年に500位デザインしなくちゃならないんで、やりきれないこと。それに費用は全部僕の方でもって何ももうからない。もちろん、もうかることなんか初めから考えていなかったんですが。

刊本作品第1号
「十二支絵本」(1935年)
 そこで僕の負担を軽く賛助作品1点だけにして、あとは家に来ている若い人たちが余技作品をいろいろだして、それでやろうじゃないかということになったんですね。今度はイルフという名前はつかわないで武井武雄主宰と頭にサブタイトルをつけて、いろんな展覧会をしたんです。その時に賛助作品を何にしようかと考えた末、思いついたのが小型の本であり、「十二支絵本」という今の刊本作品の第一番になるわけですね。それは1冊35銭かかったんです。その本を造る実費がね。だから原価が35銭で、なおかつお客さんにも、「俺、こんな本を造ったんだ」なんて手ぬぐいがわりにバラバラあげちゃったんです。それが先年の古書展で73万円なんです。35銭の本がです。そんな値段になるんだったらバラバラふりまかないで取っておきゃよかったと思うが、取っておいても戦災で焼けちゃったんですね。
 そんなことで始めたのが刊本作品のきっかけであり、4回いわゆる4番の本までは、新宿三越店の景物の賛助作品なんです。


刊本作品第108号
「ナイルの葦」
初めて日本で栽培したパピルスによる造本
 そのうち「書窓」という雑誌がね、これは恩地孝四郎がやってたもんでアオイ書房というのが道楽に出していた愛書家のための雑誌なんですけどね、これに紹介したんですよね。それまでに出ているものを5、6冊。そうしたらそれを欲しいという人が、つまり愛書家の層で欲しいという人が出てきた。
 それから僕の刊本作品のことを豆本とよく言われますが、豆本とは別なんです。豆本というのはおよそ縦6センチ以内の本をいい、現在全国に30種程ありますね。刊本作品の初めのころ豆本という言葉を使ったことがあるものですからどうもその印象が残っていて困る。
 これには、面白い話があります。
 長野市に米粒に字を書く達人がいてね、僕が小さい本を造っているってことをどこから聞いたのか、ある時わざわざ岡谷まで来て僕と小さい字を書くことの他流試合をしないかっていう申し入れがあったんですよ。ところが僕はもともと小さい本を造る目的で刊本作品を造っているんじゃないからね、それはおかど違いだと言って、結局、世話人がことわったんですよ。


- 刊本作品は毎号変わった造本の技法とアイデアが駆使されており、造本美術の極限といわれる程ですが、武井先生の刊本づくりのねらい等についてお話を


刊本作品「ストロ王」「木魂の伝記」

ユーモアと風刺に富んだ刊本の世界「平和白書」84号
武井 刊本作品の二大特色をあげると、毎回違った表現様式を採用しているということ。最初は、印刷、製版。印刷は種類も非常に多いんですが、世界中で考えられた技法を全部やりましたね。その次には版画、今まであった版画は日本と西洋とではみんな違うんです。西洋は杏木版で、日本は板目木版ですけど、こういうものも全部やり、次には自分の考えた技法の版画をやったんです。今度は工芸ですが、工芸は立体性が強くて本になりにくい。ところが工芸の中でも織物とか、染め物は結構本になるんですね。また金属でも薄いプレートだったら本になる。そんな具合で工芸で13種類を本にしました。
 そこで、なぜそういう表現様式を変えて本を造るのか疑問が起こってくるらしいんですが、これは僕が本の限界を広げるってこと、つまり本の美術を追求するのには、ただ本を読めば足りるっていうような在来の本だけを考えていたんじゃ発展がない、巾が広くない。だから本になり得るあらゆるものを取り入れて、本にしてみることが一つの開拓になるという考えで表現様式を変える事をずっとやってきているんですね。
 もう一つの特色ですが、僕はこの本づくりで一文も報酬をもらわないってことです。ただで46年間つくってきている。その工作費だとか、紙代、製本代とかいう、つまり金銭で支払ったものだけを割りつけてその実費で配っている。本屋で普通実費というと人件費まで入っているんです。ところがその人件費がただ。なぜそういう事をやっているか、以前アメリカの新聞記者がやってきて、そのわけがわからないと言うんですね。芸術作品だったら芸術作品のコストってものがなきゃならんのになぜ報酬を取らんかと言うんです。そんな説明することは面倒くさいし、英語じゃ言えないもんだから、僕は児童出版に原稿かいてそれで生活しているんだからそんなものでまたもうける必要ないんだって言ったら、OK、OKちゅってわかってくれたんです。ところがそんな事じゃないんです。
 本当はですね。絵描きの仕事でも売るための絵と製作のための作品とがある。これは展覧会に出品したり個展をやったりして発表するだけで売る気はない。自分の好きなものを製作している。一方、売る絵がなけりゃ、絵描きなんて首つっちゃあなけりゃならねえんだけど、売る絵があるからそれで何とか生活が成り立っていく。この二本立てなんですよ。絵画ってものの使い方はね。
 僕の製作はテストであってね。いろいろなものが本になり得るかどうかっていうテストをやってるんだから売る気は全然ない。つまりどういうものを造ってくれって言われて造っているんじゃなくって、自分のやりたい三昧ワンマン的なものを造ってるだけ。だからこれに対して報酬を取るっていうのは筋違い。そういう考えから出てるんです。

刊本作品専用本箱(武雄デザイン)
 テストだったら自分に一冊だけ造ればいいんですが、一冊っていうのは本というものの機構からいってたいへん贅沢で金がかかっちゃってとてもできない。ですから、一定の部数は造らざるを得ないですね。それと表現を変えるってことも、お客さんの方から見るとね、何だこれ去年のと同じじゃねえかということになるんです。ところが表現様式を変えていろいろ材料を変えてくると作者の個性は変わらないんですが、ちょっと見た目のバラエティが違ってくるんです。違った感じになる。これはお客さんの見た目の方で、僕の方にはもっといいことがある。それは何かというと、さんざっぱらやって慣れたことなら目をつむってでもできる。これは感激がないんですよ。ファイトがわかない。ところが初めてこれを取り入れて、これをどうしたら本にこなせるか考えた時は非常に新鮮でね。処女地にクワを入れると同じ事で、少年らしいファイトが湧いてくる。少年の夢なんですね。だからこれは僕の若返り法になっているんです。
 いろいろ表現様式を変えるってことは、作者にとってもプラスになっている訳です。僕は、将来のことは全然考えてないんでわからないんだけれども、生きている間はこの刊本作品だけは造るつもりです。

- この刊本作品の愛書家を中心に刊本作品友の会ができ、この人たちは「親類」と称し独特の親睦を深めながら結びついているわけですね。

武井 戦前の程度では、要するに300造れば足りないのが10人以内で、その人があふれるだけですんだんですね。で、今度は戦争中疎開で散り散りバラバラ、皆が方々へ散逸しちゃったんですね。生きているか死んでいるかもわからない。
 そういう状態の中でも本造りはやめず、西堀(郷里)で造っていたんです。この頃は不明の人もいたので260部限定でした。終戦直後から3、4年こんな状態が続いたでしょうね。そのうちにまた、会員がだんだん増えてきて350人になってきたんです。現在は我慢会と称して待っている(正会員になるのを)人が330人位いるんですね。これを僕ら、いろんな言葉をつくるんですけど「親類」と呼んでいるんです。本屋で出しているものなら会員で十分ですけど、もう少し血がつながって近親感がある会ですね。
 普通、ファンなんてものはね、その人の作品が好きだとか、あるいは芸が好きだとか、その人と直接のつながりは割合ないわけなんです。ところがこの刊本作品に関しては、本人と読者としじゅうつながりがあるんです。1年おきにビエンナーレで全国の会合があったり、接触しているんですね。作者と読者が密接なつながりを持っていること、こういうのはちょっと類例がないわけなんですよ、世界中にね。

第3回刊本作品信濃友の会でのスナップ
(昭和32年夏)
 それで会員じゃ感じがでないから親類と呼ぶようになった。この言葉は非常に成功して、北海道の人が九州に行って見ず知らずだけど、名簿を見てその人の家へ行って親類だって言って泊まってるんです。ほんとうの親類意識があり、これはまあ親類っていう言葉を使い出して成功した造語の例なんですけどね。
 通常の刊本作品は本会員の300人にだけ配本。それで今も我慢会の一番先頭の人が17年くらい並んでいるんです。(本会員になるのを待っている。)だから、こういう人たちが親類だって呼ばれても本一冊もらえないんじゃなにが親類だってことになるんで、5冊に一遍ずつ我慢会へ特頒するんです。ただし、みんなにはやれないんで200番まで。だから500部限定になるんですね。
 それから2年に一遍の全国友の会の時には、いくら最後の昨日入った人でもですね。これはスーパー我慢会って言っているんですが、こういう人たちでも出席すれば本がもらえることになっています。今のところそれよりしょうがない。じゃ、良いものだったら数が多くてもいいじゃないか、なぜ300しか刷らないのかという問題が出てくるけれども、それは普通の本屋で本をつくっているのと全然違うんですよ。刷り本(製本前のバラの状態を刷り本という。)でもみな調べてですね。本当に手作りの本で、僕の手数が大変にかかってるんです。300以上は個人の力じゃとてもできないんです。出版屋だったら校正係がいたり、頒本、発送係がいたり、セクションで分けて手分けでやるから、いくらでもできるんですけどね。

- 先生の刊本作品は、風刺的なものからはじまって、ユーモラスあるいはエロチックなものまで、非常にバラエティに富んだ素材でつくられていますが。

武井 だいたい風刺的なものが多いには多いんですよね。中身に味付けしたいのはユーモアとペーソスという人生の悲しみのようなもの。これは余談ですけど、初めは既製ののものだって僕の文章として使ってったんですよ。例えば、イソップとかインドの伝説とか中国の聊斉志異の中にある伝説とか、そういう既製のものを使ってたんです。ところがこういうものは虎の威を借りるキツネでね。原作のウェイトにおんぶしているのは卑怯だと、これで作品と呼ぶのはおこがましいっていうんで24番の本からは絶対に人のものは使わない。つまり既製の伝説とか文学は使わず、全部自分で良く言えば創作、悪く言えば出鱈目を書くということにして、それをずっと墨守してきているんです。


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